鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

東山道相模路3

2010年08月21日 | 東山道~鎌倉
さて、
東山道相模路の緑のライン!
このラインの下を発掘したら、古代道路遺構が必ず出るか?
平野部ならば、ソウトウナ確率で出土するでしょうが、、
六郷の河から南は長津田、町田まで山間部でこの山間部をどの様に通過するのか?
切り通して真っ直ぐに路が付いていれば,切通しを目当てに苦労も無く見つかりますが、、、
見つかって無いことから山の中は単純な直線ではないと考えられます。
宅地化の大規模造成で地形は変化した為、調べ様が無い。

写真は、前回の地図の緑ラインの切れる下飯田の場所で、この場所で10m幅の道路遺構が出たそうです。(中ノ宮北遺跡1999.3ぼ輔は資料を未確認。)
面白い事に、、武蔵国府より、江ノ島へ向けたラインです。(実際は500mずれ片瀬山辺りを目指す。)
多摩川脇の山に登ると、江ノ島まで見通せると、、、資料から推測できます。
芳賀善次郎氏:旧鎌倉街道探索の旅(上道)に記された道が脇を通り、細く赤いラインで記入しています。
直線道路脇を相鉄いずみ野線が通る事、この直線道は横浜市主要地方道18号環状4号線として道幅を広げる際に見つかったと思われる。
国土交通省、空中写真を使用。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山道相模路2

2010年08月11日 | 東山道~鎌倉

東の上遺跡から旧国鉄中央鉄道学園跡遺構を緑の直線ラインの延長です。
赤く囲った道が海軍道路で、3kmの直線道路です。

この周辺の鎌倉街道は、西から
①想定伝路、
②滝川街道、
③安部正道氏の鎌倉街道、
④旧ドリームランドから北上する道
⑤。鎌倉道(阿久和ー鎌倉線)、
⑥古代東海道の陸の道、更級日記に書かれた後の江戸東海道、
この様に、チョット目立つ街道でも、これだけある。
その中で、
古代の東山道と考えられる路は、どれか?
マスコミに登場しない道ですが、、、、
直線ラインを描けば、この海軍道路である事が一目瞭然です。
何故、注目されないか??
東山道の支道は「武蔵国府」へ行く為に作られ「東山道は、武蔵国府までです。」と考えた間違えです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山道相模路1

2010年08月09日 | 東山道~鎌倉
東山道相模路、、この名はこのブログ限定の名称です。
公的には存在を無視された、東山道武蔵路の武蔵国府より鎌倉までの東山道です。
鎌倉時代の古文書には「武蔵大路」の名で登場する路です。
しかし、「武蔵大路」の名は在っても 場所が不明瞭な為に存在を無視された中路幅の駅路です。
中路規格の路面9mは十分に大路と呼ばれても問題の無い幅です
鎌倉時代に作られた道幅は鎌倉周辺で3.3m程度で、それ以上の道幅は不要で、軍事的にも攻め込まれる危険等あり、鎌倉時代には広い道幅は作られなかった。
その様な広い道幅があるとすれば、平安時代かそれ以前の時代に作られた道と考えられます。
 東山道でも古代東海道でも、官路は何度かルートを変える事が実証されています。
ですから、この路が正規な駅路や官路とか、を考えるのは当たらない。
いつの時期に使われたかを問われるべきと思います。
言える事は、
古代初期の官路,駅路は道幅が広く直線的であった。
 
さて、、
この事を踏まえて、ぼ輔に衝撃的な情報が判明した。
それは、無視されている鎌倉街道の存在です。
太平洋戦争に遡る話ですが、
神奈川県横浜市瀬谷区に日本海軍が作った「海軍道路」と言うのが在ります。
直線が3kmある道路です。
東の上遺跡(※1)から、旧国鉄中央鉄道学園跡遺構(※2)に直線を引き、その延長を伸ばすと、、
この「海軍道路」の直線道路にノルのです。
それ以前の明治時代に横須賀港に水道を引こうと水道管を敷設した場所も、敷設した関係者に話を聞くと、以前に道路として使われた痕跡があると言う話が在り、実体を調べることも無く想定伝路の名前になった。
偶然の一致でしょうか?
 土地の接収のし易さ、土地の境であったり、青地と呼ばれた場所で地主とのトラブルの少ない場所を選定した結果ではなかったのか?
 
地図は、国土地理院 1/20万 東京 昭和59年発行
地図は長すぎて、前半と後半に分けます。
地図は、東の上遺跡から旧国鉄中央鉄道学園跡遺構を緑の直線ラインを引きました。
その延長は、画面の容量が表示目一杯で後半を次回に「海軍道路」まで表示します。
(※1)埼玉県所沢市久米
(※2)東京都国分寺市泉町2丁目
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

工事が始まる。

2010年06月06日 | 東山道~鎌倉
2009-02-24記載「表紙の場所から、、後方を写す!」の100m南下した場所の写真です。
判りにくい野原の写真が、草を払うと、道らしさが浮かび上がります。
如何ですか?
世にも珍しい、、、奈良時代と思われる官道跡としたら、、埋没しないで現存する唯一の物です。
路面幅9m前後、脇は平行して両側に土手が在り、路面脇には側溝を備えた物です。
路面は硬化こそしていないが、この地には非常に珍しく特殊な土に覆われ層状になっている。

既に、周囲は鉄板に囲まれて一般人が見ることは無理です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

表紙の場所から、、後方を写す!

2009年02月24日 | 東山道~鎌倉
表紙には、左手はコンクリートの現代の下水が作られていますが、、、、
この写真左には、古来からの側溝と考えられるものが存在し、、今も下水が流れています。
要は、路面の両端に側溝が在るのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立石 4

2006年10月04日 | 東山道~鎌倉
鎌倉を守るに邪魔な武蔵大路!出来るなら消滅させたい。
当然この道路遺構にも手を付けたであろう。
立石対岸の痕跡は、川から上り口に、、先ず道を切り崩し段を作った。
4~5mの段になっています。段の下は家が一軒建つ広さで家が在ります。
鎌倉幕府がやったであろう!っという根拠は、坂道の土砂を取り除き平地にしてある。
その規模が一個人の財力ではやれない規模である。っと言う理由です。
そこから200m程遺構が残り、その先は土砂で埋まり、痕跡は不明です。
その延長の300m先は江戸東海道(現第一国道)で、その間に妙な土地があります。
何が妙かといえば、持ち主無しの土地(俗に青地と呼ばれる)が細長く有るのです。
更に鎌倉に向け1K先には、「関谷」という地名があります。
関谷についての由来に伝承は無いようで、、、
本を見ると「玉縄城に出入りする人を監視する関では無いか?」と書かれている。
馬鹿を言っては困る! その様な場所の名前は「城の門」と言います。
その関谷は玉縄城に接しており、城の周囲は城廻と呼ばれる道が有る。その南西側は、鎌倉に向けた古道跡とも考えられる幅が有る。
これも、鎌倉側で断ち切られた状態に成っている。

写真は玉縄城で、通常の城の概念とは異質です。
石垣の無い山城と呼ばれるが、これが曲者で難攻不落を誇った名城!
1500年代に北条早雲が作ったとされ、上杉謙信が攻めたが落とせず!
武田信玄が脇を通ったが前例を知って、攻める事はしなかった。
その後、城を攻められ開け渡した事があるが、武力ではなく政治力に負けた為です。
最大の特徴が、臼鉢型の真ん中が窪んだ城です。
その周囲に道路が有るのを確認できるでしょうか?城廻と言われる道路です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立石 3 

2006年10月03日 | 東山道~鎌倉
同じ地点より反対側の鎌倉向きに(東)撮った写真です。
両側の土塁(土壁)の状態が前の写真より判り易いと思いますが、、、
平らな処に畑を作り、、土塁の場所は、そのままにしてあります。
両土塁間12~15mは家を建てたり、畑を作るに適当な幅でもあります。
土塁は、200mにワタリ直線的に存在する。

段々、、鎌倉に近づいていますが、、、
鎌倉の山を越え市内に入る為の、巨大な道を作る事が出来たのか?
そんな、、、謎解きです。

道幅9mが、何故巨大か?
今の車社会しか知らない人には理解出来ないでしょうが、、、
戦後間もない、自動車が自家用車として使われなかった時代、、、
大半の道は荷車を通せれば、立派な道だったのです。
荷車は大八車が一般的ですが、畳一枚程度を運ぶ幅と長さです。
昔の軽4トラックも畳を運べる規格でした。車幅1200ミリ程度です。
そんな時代に、バスが一台通れば、他の地域をツナグ街道です。
それでは、バスとバスがすれ違えない!
チャンとすれ違う道幅を確保したポイントを作って有ったのです。
遙か彼方に小さく見える対向するバスを延々そのポイントで待っていたのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立石 2

2006年10月03日 | 東山道~鎌倉
「水道道路(明治の地図)その3」の境川を挟んだ立石対岸に赤いラインで示した場所!
「鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?」と「クランク状態を無視して直進した場所」に共通の道幅、坂の傾斜、土手の在る場所です。

写真は道路遺構の真ん中より西(境川)に向けた写真。
右側の人一人通れる幅の道は、土手上を通る直線的な現行の道。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立石 1

2006年10月02日 | 東山道~鎌倉
立石には、立石神社があります。
当然学者が調査した筈ですが、、、
この伝承については、一言も言及していない。
よって、、、伝承は無かったと外野のアマチュアは思うのです。
何故?  伝承が無いか???

東山道相模路が在っては困る人が居たのです。
出来る限り判らない! 使えない! そんな道を消す工作をした。 ダロウナと思う。
当然目立つ立石は、鎌倉時代に引き倒されて、、、埋められた!  ダロウナと思う。
それが、立石。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頼朝の策略!

2006年09月26日 | 東山道~鎌倉
鎌倉から見たら武蔵大路。大和朝廷から見たら、東山道相模路。
名前が有っても、鎌倉でその実態は不明のまま!
そんな大路に対応する道の痕跡は無い?
痕跡が無いのではなく、常識に頼るから見つけられない!

武蔵大路は化粧坂がそれに相当するのでは?
そんな考えがネットに散見する見解です。
しかし化粧坂は、古代東海道の痕跡との考えは、このブログに書きました。
(その年代は、古代と言うより、平安時代から鎌倉期)

では、武蔵大路に相当する大路の痕跡が有るのでしょうか?
もし大路が在ったにせよ、、、それは鎌倉幕府が消し去った痕跡です。
大仏の細い道ですら、完璧に通れないバリケードで守る。
太い武蔵大路ならば、防御に不利となり、使えない様にせざるおえない。
問題は、「どの様にカモフラージュ(偽装)し使えなくしたか?」
私が鎌倉で相模大路を見つける根底に有る考えです。

その様なカモフラージュの一つに、クランク道があり、通る人を疑わせない様にその先に小ぶりだが、立派で直線的な切通しを作り、ビミョ-に江ノ島方向に進路を変える細工をした!っと私は推測するのです。

クランクの谷には、断ち切った様な崖があり、崖下の湧き水により谷がエグラレタ様に見えるのですが、、、、
よく考えれば、あの程度の湧き水で垂直に切り立つ程の崖が出来るハズも無い。
ココから、鎌倉幕府の武蔵大路消滅工作は始まった!と考えています。

 写真はクランク脇に有る鎌倉道の特徴を持ったヤゲン堀状の道。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水道道路(明治の地図)その5

2006年09月22日 | 東山道~鎌倉
地図は、現在の地図です。
聖園女学院の私有地に成っている場所で、ご覧の様にアスファルトです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水道道路(明治の地図)その4

2006年09月19日 | 東山道~鎌倉
クランク道の東南に「立石」という地名が有ります。
この地名は、駅路(古代官道)が川を渡渉する時に目印に石を立てた事から、一般的に付けられている地名の様です。
川があり、目指す方向は鎌倉である。
条件として、符号するのです。
この「立石」から東に向けた方向が鎌倉!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水道道路(明治の地図)その3

2006年09月19日 | 東山道~鎌倉
この地図の北は、通常の上が北です。
唐糸草子という昔話があり、万寿姫が鎌倉に母の唐糸を訪ね府中方面から星谷寺(座間市)へ詣でて藤沢市の砥上河原に行く道が有る事を書いています、、、
読む人が共感を得る物語に公表できる程、一般的に使われた道と考えられます。
この間、町田と座間の間には、後世の人が奥州古道と呼んだ道が有るそうです。
座間より、藤沢への最短距離をツナグのが、この東山道武蔵路という訳です。
それを裏付ける様に、奥州征伐に先立ち義経の首実験の為、奥州より首が送られた。
しかし鎌倉に入る事を許されず、藤沢の白旗神社の近くで首を洗い、首実験をされた。
首はそのまま川に流したとされ、この場所に源義経を祭る白旗神社が建てられた。
この時点で、東山道相模路は既に鎌倉に直行せずに、江ノ島に向けて道が変えられていたと、私は考えています。
其の分岐点となるのが、疑惑のクランク道に有るのです。
江ノ島に向けて作られた道は緑のマークを付けた切通しで、白旗神社に向けて現在も存在しますが、、、一般人は入れない聖園女学院の通用口と成っています。
機会が有れば、、覗きたい!  他意はありません!
そのまま、遊行寺前を通り、地図の下の紫のマークの道を行くと、唐糸草子に書かれた砥上河原に出ます。(現在江の電石上駅の名前や、石上神社等が残っていますが、川は改修され、付近に川は有りません。)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水道道路(明治の地図)その2

2006年09月14日 | 東山道~鎌倉
水道道路(明治の地図)その1の引地川を渡った処から重複してその続きです。
注目点は、赤丸で示したクランク状に道が曲がる道です。
赤マークの道を北から南へ(画面左より右へ)行くと、赤丸印の処がクランクに折れ曲がっています。
このクランク状態を無視して直進すると、そこには「緊急事態!」の道路遺構と道幅、坂の傾斜、等が似た谷に成ります。
違う処は、1200年の経過を感じる自然に埋もれた雰囲気の景観です。
更に下ると、、、そこは湧き水で谷がエグレタ状態!
自然の湧き水でそうなったのか?
ハタマタ鎌倉幕府が仕組んだモノか?
今と成っては検証の材料がありません。

問題は緑のマークで示した谷の脇の道です。
鎌倉街道の特徴を持つ、ヤゲン掘状で直線的な、馬一頭が駆け抜けるのに都合が良い道があり、更にその先には立派な切通しが待ち受ける。
さて、この切通しですが、、
立派な割りに「鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?」より道幅が狭い!
その様な訳で、東山道相模路とは異質なモノを感じるのです。
鎌倉時代と、奈良時代が交錯している場所と思っています。
その様な訳で疑惑のクランク道です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和初期の水道道路地図

2006年09月13日 | 東山道~鎌倉
詳細な年代は記録忘れです。
水道路が作られ、小田急が開通し、赤マークの直線道路が途切れた処に軍の通信基地が作られました。
座間飛行場の為の通信基地で、現在のイスズ工場です。
緑のラインが小田急線。
紫の丸マークは、海老名の国分寺と国分尼寺です。

赤丸をした処が写真の場所です。
注目して欲しいのは、いったん川を渡る為に直線を外れた道は、次の台地の水道路に再び合致するのです。
直線を意識した道は、この様に地形に影響されると言う訳です。
これが、単なる直線ではなく、「直線の程度を知る必要がある」と言うことです。

描写が荒いのですが、細かい画像のリクエストが有れば、コメントしてください。
このブログにディスプレイをはみ出す画像を載せます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする