鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

水道道路(明治の地図)その1

2006年09月13日 | 東山道~鎌倉
明治15年頃に陸軍で作られた迅速測図という地図です。
小田急も未開通、横須賀水道も無し。
目立つのは、
黄色で書いた戸塚から大山に向けた大山街道と茅ヶ崎から川崎に向けた中原街道です。
赤いマークが想定伝路水道路と言われた直線道路ですが、
赤マークが途切れ曲がって川に向かうのが私の写真に有る道です。

「古代道路は、直線で無ければ駄目!」っと考えたら見つからないでしょうね!
それが、机上の理論で終わり、想定伝路とした理由でしょう。
一応は現地調査をした様ですが、、、
実際に周囲を調べ「川に降りて次の台地に行く行くには何処を通るのが合理的か?」っと言う観点で探した差です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉街道「上の道」と東山道相模路

2006年09月11日 | 東山道~鎌倉
鎌倉街道「上の道」と言われる道があります。
成り立ちは定かでないですが、少なくとも江戸時代に頻繁に使われたであろう事が想像できます。
現代になり、路端の石塔や伝承や文献を参考に探索した結果の「上の道」と考えるのです。
石塔は大半江戸時代の物、伝承と言っても、江戸以前は戦国時代で土着の人は移動した後の江戸時代の伝承、、、
その様な訳で、伝承から消えた鎌倉道が多数ある事を私は感じます。
さて、
そんな「上の道以前」の時代から東山道相模路は在ったと言う文献に

””””””””””””””””””
5月27日のブログに「唐糸草子という昔話があり、万寿姫が鎌倉に母の唐糸を訪ね府中方面から星谷寺(座間市)へ詣でて藤沢市の砥上河原に行く道が有る事を書いています、、、
その時に通った道は、前の時代、、、奈良時代に作られた東山道武蔵路と考えています。」

””””””””””””””””””

っと言う訳で、頼朝存命中の鎌倉時代初期に既に藤沢遊行寺辺りから南に向け江ノ島へ、海側を通り稲村ヶ崎に向け道を造り変えたと私は考えています。
本来の東山道相模路は、遊行寺坂上の影取辺り(横浜市東俣野)から鎌倉へ向かう訳です。
しかし、、この道は、路面が広く鎌倉の攻撃に使われたら鎌倉幕府は困る。
色々な細工をして使わせない様にしたと考えるのです。
所詮 実用で必要な道幅は、馬が一頭駆け抜ける幅が有ればよい。
「いざ鎌倉」と言う時は、小編隊の関東騎馬武者が鎌倉へこの道を疾走するのに都合が良いが、大部隊には困る道です。
現に鎌倉山中にある鎌倉街道はその様な細い道で、特例は、朝比奈切通しだけです。
あの化粧坂ですら、外部(梶原団地の方)に向けては自転車を降りて歩く様な道に改造されたのですから(水堰橋に向けては3m幅)!!
この辺りが、東山相模路が歴史から消え、上の道が残った理由です。

本家の鎌倉周辺が細い道なのに、地方に太い道痕がある矛盾!
地方の鎌倉街道に道幅6m等言うのが発見されたと散見しますが、前の時代の駅路(平安時代に道幅9mを6mや3mに改修している。)や伝路の痕跡を使いまわした道と私は考えているのです。

道の年代特定は、専門家でも定かでは無く学者が「鎌倉街道かもしれない」といえば、それを聞いた人は、「この道は鎌倉街道であると権威ある先生が言った」となる。
権威に弱く自分の考えが無いのは、、悲しい限りです。
そんな烏合の衆的な処が恐怖感を与えると、平家は戦わずして全滅した「倶利伽羅峠」の悲惨な話の根底に有ると、感じます。
富士川の合戦は飛び立つ鳥にオビエタ平家が戦わずに逃げ出したが、「倶利伽羅峠」では、戦わずに全員殺されたのです。
知識だけでなく、自分の目で確かめ実感を積み上げれば、自分の意見も沸いて出ると思うのですが、、、、
「倶利伽羅峠」と鎌倉の関係は?
これから、、徐々に書く終点にその様な計略を感じる遺構が鎌倉の武蔵大路に仕掛けられたと、、、  これも私の空想です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

武蔵大路が鎌倉に有る!

2006年09月10日 | 東山道~鎌倉
鎌倉市内に「武蔵大路」と呼ばれた道があるそうです。
御成小学校から寿福寺辺りの今小路を「武蔵大路」と呼んだ時期があるとの事。
実態は闇の中ですが、鎌倉市内にそう呼ばれた場所が有った事は事実の様です。

鎌倉市史(総説編)に
「武蔵大路が鎌倉内であることは吾妻鏡の文永二年(1265)三月五日の条の町御免の場所に、武蔵大路下とあることによって殆ど疑いがない。これよりさき建長三年(1251)十月三日の条にも町免許の場所があげてあるが、それには亀ヶ谷辻というのが見える。これは亀ヶ谷辻を武蔵大路といいかえたのではないかとすぐに思いつく」。

「吾妻鏡」の桐生六郎と梶原景時の行動では、武蔵大路は鎌倉の外にある。
(詳細は、『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条)

これらの文章から言える私の考えは!
1.「武蔵大路」の名称により、鎌倉から、武蔵に向けて路が有った事。
2.その道幅は大路である事。(律令時代の中路だが、路面幅9mは大きい)
3.武蔵大路が鎌倉内に有る事。
4.亀ヶ谷辻にも武蔵大路がある。
5.鎌倉の外にもある。

武蔵大路は、地名ではない!
道の性格上 鎌倉の中から目的地まで続いてるのです。

「鎌倉郡ガより武蔵の国府に向けて大路が幕府以前に有った!」
何の問題も無い?

問題は武蔵大路が何処を通っていたか?
鎌倉の七口が鎌倉の内外を隔てています。
しかし、、七口の様な狭い道ではなく、武蔵へ行く道は、、、
大路でナケレバならないのです。 これは、とても大きな矛盾です。
いい加減に探した程度では、そんな大きな道は無いのです。

その解決は、、、、
そう、、仮想伝路水道道路にあります。
誰が付けたか? この仮想伝路ですが、、、
その実態は、伝路レベルの細い道では無いと道路遺構から言えるのです。
東山道武蔵路の延長として、東京国分寺より、鎌倉へ向けた時に東山道相模路となり、
相模国分寺や、宮久保遺跡の脇から、水道道路を通り、鎌倉市内の武蔵大路迄が考えられる。
この道が「新編鎌倉志の桐生六郎」の記述の武蔵大路と言う私の考えです。

この先の話として、鎌倉の外から内側に入るには、、、、魔法でも有るのでしょうか?
大半の方は化粧坂から入ったと考える様ですが、、、、
化粧坂は古代東海道と考えています。

2012/9/20 訂正:『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代道探しの原点

2006年09月08日 | 東山道~鎌倉
古代道探しは、明治の地図を手に入れることから始め、
現代の地図との比較をするのが定番というか、、、基本でしょうね。
現代的には、国土地理院の無料航空写真があります。
これは、ただ見ただけでは、、、本来の使いかたの20%しか使えていません。
立体視して、はじめて本来の使い方が出来るものです。

水道道路の地図の直線道路ですが、現地を確認しようとしても、、、平地は利用価値が高く、畑や、住宅、工場が立ち、、、
開発されて無くても、平地の雑木林なんて、、こちらの湘南では、気候がよくて、冬でも藪コギで、地表の状態など、判り様が無い!
目先が見えない状態で本当の「藪の中」です。
その様な訳で『神奈川の古代道』の著者達は、、、現地を確認できなかったのであろうと、想像しました。

しかし、私には古代道に対する多少の感があります。
感と云う言い方は、、、良くないですね!
鎌倉の化粧坂の西の坂や、朝比奈の切通しの体験があります。
その様な体験は、現地に行くと古道の雰囲気の共通点を感じるのです。

台地の直線的な道は、台地を降り、川(引地川)を渡り、次の台地に上る地形になっています。
川に降りる時と川から次の台地に上がる坂はキット切り通して坂を作るに違いなく、、、、
それを探せば、安易に古代道痕を探し出せる!
そう考えて探し出したのが、、、
「鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?」 2006-05-27記
「緊急事態!」 2006-08-22記
の場所だったのです。

記事一覧 ★★http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/★★
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想定伝路水道道路

2006年09月06日 | 東山道~鎌倉
「想定伝路水道道路」とは、
『神奈川の古代道』藤沢市教育委員会発行 に記載された古代道と思われる道です。
「高座郡家から鎌倉郡家を結ぶ律令時代の伝路跡」(木下 良氏監修)と記載。

この道の紹介として< 水道道路 >があります。
http://www.geocities.co.jp/Outdoors-River/1555/suidoudouro.html

神奈川県海老名市の国分寺から、藤沢市の遊行寺辺りまでの直線道路痕跡です。

伝路とは、東海道の中路規格より一段下の6mとか3m程度の道で、、、
想定したと言うことは、確たる根拠は無く、明治の地図に直線道路が記載されており、これを根拠に想像したと解釈できます。
ですから「詳しく周囲を調べた状況」と言う記事は無い。
水道局の訳知りが「当時既に道が存在した処に水道管を敷設した」という話が付記された程度で、規模や状態等、必要な情報は書いてない、、、と言う事は調べたが判らない!若しくは調べなかった!  っと解釈しました。

この情報を基に私の古代道探しをはじめた訳です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山道武蔵路

2006年07月26日 | 東山道~鎌倉

本当は、東山道武蔵路ではなくて、武蔵国府から先の東山道相模路(杉きちサンが言い出しはじめ)を書きたいのが本音です。
都合上、東山道武蔵路から話始めです。

東山道に新田駅や、足利駅が有るそうで、、
そこから、東京都国分寺市に有ったと思われる国府に向かい 東山道武蔵路が作られた。
この道は、1989年に埼玉県所沢市「東の上遺跡」として発掘され、学者間でその規模の巨大さで注目を集めた。
それ以前の発掘もあったようですが、実質これが世に知れ渡った最初の様です。
両側溝間12mの幅があります。
巨大駅路が認知されて、、15年程しか経っていない。
それ程未開の分野の学問という事です。

実際は、武蔵の国府に行く目的の道では無く、鎌倉に向けての痕跡が在った訳ですが、、、

東山道武蔵路は、武蔵国衙の為に造られた路と現時点で説明されて居り、其処から先の鎌倉には言及し無いのが、学識者の現時点での見解です。
道は目的地が在っての敷設ですが、鎌倉迄ある東山道の延長は何と呼んだら良いか??
その先を称して東山道相模路と言う訳です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉の古代

2006年05月29日 | 東山道~鎌倉

■ 記 2006年5月29日 鎌倉の古代  2006年05月29日 | 東山道~鎌倉
鎌倉には、鎌倉時代しかなかった?
いえいえ、、奈良時代や平安時代も当然ありました。
その古代には、巨大な古代東海道や東山道武蔵路が通っていた筈!
頼朝が、城砦として鎌倉を作り変える以前の鎌倉の話です。

東山道武蔵路は、群馬県足利(太田)辺りから東京都府中に向けて作られた道で、
更にその先は、学術的には語られないが、、、、チャンと鎌倉まで痕跡がある!
っと素人のぼ輔が痕跡探しをする話です。

武蔵大路が鎌倉に在ったとする根拠は文献があります、、
鎌倉内の地名として、吾妻鏡(1265)に武蔵大路下と書かれている。
(武蔵大路下の地名は 亀が谷の辻や寿福寺の周辺に在ったと考えられる。)
  話は変り、
頼朝に攻められた平家の足利俊綱は 家来の桐生六郎に殺害された。
新編鎌倉志には、桐生六郎が主人の首を持って鎌倉へ賞金目当てに行く話がある。
この時に鎌倉に入れず、鎌倉の外を徘徊する話の中に武蔵大路の名前が出てくる。
これらの文献から言えることは、
1.吾妻鏡の記載を根拠に武蔵大路が鎌倉内に有る。
2.吾妻鏡の桐生六郎記述の項目により、鎌倉の外にもある。
3.その道幅は大路である事。(奈良時代の中路ですが、路面幅9mは巨大な路です。)

鎌倉外部より市内に向けた武蔵路が在り、単なる街道ではなく、大路が有ったと書かれている。
鎌倉城を造る時点でこの街道は封鎖されたと考えるのです。
問題は、その痕跡は??  その答えは「鎌倉の大堀切!」に有り、武蔵大路=東山道相模路と言う訳です。

 相模の国の古代東海道の話ですが、
平塚の古代道路発掘現場で「この道は、茅ヶ崎より北上し座間に向かう」と説明された。
そりゃ間違えでしょう! 9mの道幅は、奈良時代の駅路と考えられ、目的地に向かい直線的に作られる。
古代東海道と言えば、足柄峠から東京湾に抜け海を渡って千葉に行くのが経路です。
足柄と東京湾の中間が平塚ですから直線的には鎌倉へ向かうのが筋です。
平塚の駅路の次は東京湾に向かえば次の16Km先の駅路に鎌倉が当り順当です。
茅ヶ崎より北上し座間に向かい町田から武蔵国府なら、、90度折れ曲がり不自然過ぎる!
何故間違えたのか?? 歴史の時系列を無視して間違えたのだと考える。
川を渡った後で、何の障害も無い平地を直角に曲がるのは、古代官路の考えには無い!古代道は目的地に向かい最短距離で道を造るセオリーに外れるのです。
平塚の9mの道幅は、初期駅路であり、後年の武蔵国衙へ向かう道(771年宝亀二年に東海道に編入)と混同した間違いであると<ぼ輔>は考えます。

     (赤点は、大路の痕跡または地名が古大道に絡む地点)
初期の古代東海道は東京湾を船で渡り、上総(千葉)へ向かうと有ります。
 古代初期の東海道とその後100年経過した(771年宝亀二年に東海道に編入)武蔵国衙へ向け駅路変更をしたかも?と言う憶測で東海道の史実を整理出来にず 錯乱したと考えます。
年代考証を正確にやれば、この様な結論は間違えと気付くハズです。
時代が過ぎて、武蔵野国が東山道より東海道に編入され、その後の東海道は東京湾に出ず、武蔵国衙から陸路を通るのは、ズット後の時代になります。

学識者の中で、東山道武蔵路と古代東海道の解釈及び時系列が混乱をしたのでしょう。
東山道武蔵路ですら、、現在の解釈とは違い、初めから鎌倉に向かう道を作り、その途中に武蔵国衙を置いた。っと考えるのが合理的と思います。
もちろん、茅ヶ崎から神奈川県の海老名国分寺に向かう道も在って不自然ではないのですが、平塚の道路遺構の規模とは別の格下の駅路ではなく伝路と考えます。
東山道武蔵路の埼玉県所沢市の「東の上遺跡」は650~675年頃に作られ、その後宝亀二年(771)に武蔵国は東海道へ所属替えをした。その間100年も有ります。

問題は、鎌倉に古代東海道と東山道武蔵路の巨大官道の遺構は有るか?
有るとすれば、何処に在るか?
大半の学識者は、「そんな道は調べた事が無い!」誰もそんな説を出して無いと言う訳です。
「巨大な道路遺構は、鎌倉に無い!!」という見解です。
その常識を崩す反論として「朝比奈切通しは 巨大道路の遺構でしょ?? 目を開けて観察したら!!」
リアルタイムの謎解きです。
写真は、足柄峠にある、古代東海道と思われる遺構。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?

2006年05月27日 | 東山道~鎌倉
■ 記 2006-05-27  鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?

唐糸草子という昔話があり、万寿姫が鎌倉に居る母の唐糸を訪ね府中方面から星谷寺(座間市)へ詣でて藤沢市の砥上河原に行く道が有る事を書いています、、、
その時に通った道は、前の時代、、、奈良時代に作られた東山道武蔵路と考えています。(武蔵路について、これまでのマトメ・2011-11-05記を参照してください )
鎌倉へ行く道ですから、鎌倉街道と呼ばれても、不思議はありません。
しかし、、藤沢市に有る道路遺構から考えると、その規模から奈良時代の官道の跡!(道路を作る為に2011年消滅)
路面幅9mは有る巨大道路です、、、、
学者は掘り出さないと見つからないと考えるでしょうが、、、、、
確かに平地は畑になり、宅地になり、、掘り出すしか仕様がありません。
頭を使えば、急な崖の場合、切通すのがパターンなのは、今の高速道路も同じで、その様な場所を捜索すれば、、、この様な場所が見つかります。
文献の根拠も大事でしょうが、地の利が有る者が丹念に地図を見ながら探せば、文献では限界の有るモノが見つかるのです。
貴方も探して見ませんか?
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする