『新編鎌倉志』より
「大仏切通 :大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」となっている。
さて、、
今回のテーマは、武蔵大路より「深沢を経て腰越に向う」道である。
桐生六郎は、主の首を持ち武蔵大路を鎌倉に向かった訳です。
武蔵国分寺脇から町田海老名国分寺脇を通り、大船玉縄城脇から大船天神山の麓まで武蔵大路をたどり着いたのですが、この辺り(天神山の麓、山之内)から先の鎌倉内に入れず立ち往生となった。
新田義貞の鎌倉攻めでも、洲崎の戦いで勝利して山内に向かう時、この天神山を乗り越える必要が有る、、乗り越えた場所が吾妻鏡に書かれた鎌倉の外にある武蔵大路と考えるのです。
大船天神山より深沢を抜け腰越へは古来より道が在ったと吾妻鏡の記述から考えられる。現在確認できるのは、このルートに江戸時代の「江ノ島道」と呼ばれる道があり、古代からの使いまわされた道と考えるのです。
特に深沢より腰越間は山が連なり、この山越えのポイントは手広と呼ばれる場所に限られる。
この手広の青蓮寺脇には切通しが有ります。
その様な訳で、この場所を桐生六郎所が通ったとすれば、「吾妻鏡」にも載った歴史ある道です。
写真は、手広の青蓮寺脇切通しで、通行禁止の立て札から上の状況です。
「大仏切通 :大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」となっている。
さて、、
今回のテーマは、武蔵大路より「深沢を経て腰越に向う」道である。
桐生六郎は、主の首を持ち武蔵大路を鎌倉に向かった訳です。
武蔵国分寺脇から町田海老名国分寺脇を通り、大船玉縄城脇から大船天神山の麓まで武蔵大路をたどり着いたのですが、この辺り(天神山の麓、山之内)から先の鎌倉内に入れず立ち往生となった。
新田義貞の鎌倉攻めでも、洲崎の戦いで勝利して山内に向かう時、この天神山を乗り越える必要が有る、、乗り越えた場所が吾妻鏡に書かれた鎌倉の外にある武蔵大路と考えるのです。
大船天神山より深沢を抜け腰越へは古来より道が在ったと吾妻鏡の記述から考えられる。現在確認できるのは、このルートに江戸時代の「江ノ島道」と呼ばれる道があり、古代からの使いまわされた道と考えるのです。
特に深沢より腰越間は山が連なり、この山越えのポイントは手広と呼ばれる場所に限られる。
この手広の青蓮寺脇には切通しが有ります。
その様な訳で、この場所を桐生六郎所が通ったとすれば、「吾妻鏡」にも載った歴史ある道です。
写真は、手広の青蓮寺脇切通しで、通行禁止の立て札から上の状況です。