鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

忘れ去られた鎌倉  番外編

2009年09月01日 | 忘れ去られた鎌倉
前回は古文書を批判の態度で扱いましたが、、
今回は古文書を肯定した形で扱って見ましょう

『鎌倉攬勝考』では、、、、「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」。
これを肯定すると、吾妻鏡の大仏は深沢に作られたと書かれた処ですが、
現在の常盤や梶原も深沢と考える事が出来ます。
さて、
海蔵寺裏の大堀切(武蔵大路の痕跡)の西側が瓜が谷!JR北鎌倉駅の南に当たる瓜が谷ですが、
鎌倉内外を分ける境界線の場所です。
この瓜が谷に桐生六郎は居たと想定すると、、、
そこで、山之内配水池脇を乗り越えれば、そこは深沢であったと考えられます。
山之内配水池脇は、化粧坂ー葛が原岡神社ー山之内配水池ー山崎台峰の道ー天神山と続く峰通しの道!言わば鎌倉街道の幹線道路で私の記憶が間違いなければ3m幅の道路遺構を検出しています。
峰通しの道としては、鎌倉山中では破格の広い道幅が根拠で幹線と考えます。

では、「やはり桐生六郎は山の峰を乗り越えた!」っとなると峰通しの道を横切る事に成る。
そこまで、単純に考える事はしないのが、ぼ輔の考えです。
谷から峰に上がるには、切岸が邪魔をして峰には上がれない構造が鎌倉城です。
その幹線道路は重要なだけに、、瓜が谷より簡単に上ったら、即鎌倉市内に侵入される事に成る。
依って、峰通しの道を横切様な道は無いはずです。今は自動車で簡単に登れますが!
基は城壁としての機能を持つ山ですから、簡単に乗り越えられてもね、、

海蔵寺裏の大堀切の構造と、武蔵大路の痕跡と考えた時に、この3mの峰通しの道は細過ぎて武蔵大路と考えるのは無理があります。
武蔵大路が峰より低い位置を武蔵大路は通った根拠に切通しがあると考えます。

武蔵大路は、大堀切の先天神山に向け何処を通るのか?
順当に考えれば、北鎌倉女子学園の下のJR北鎌倉駅前に行くのですが、、、
その辺りの考えが情報不足状態です。
ここから先は、今は胸の内に入れたまま、、考えが纏まった時点で、、、

写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省を使用。
天神山ー深沢ー手広ー腰越は、江戸時代の江ノ島道。
大仏切通しとは、異質な位置関係。

薄緑のラインは、古代東海道や、鎌倉内の武蔵大路と呼ばれた場所、六浦道(古代東海道)っと思われる場所と鎌倉郡ガ跡。
コメント
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