鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉の砂鉄 2

2010年05月13日 | 鎌倉の古代
先日鎌倉図書館の古本を覗いたら、、、
鎌倉100年を記念した本がありました。
「鎌倉の海」と言う本で、鎌倉市の製作です。
きっと、市制100年だと思ったが、読み直すと鎌倉の海水浴場の100年でした。
見出し「コメントより (忘れ去られた鎌倉今泉編6)」に書かれた砂鉄の話。
残念ですがイタチ川ではなく、、、
七里ガ浜で戦争末期から戦後にかけて砂鉄の採集がされていた!
七里ガ浜と言っても、稲村ガ崎の脇の極楽寺川の流れ込む場所です。
砂鉄を採集している写真が掲載され、そこに写し込まれているのは、極楽寺川と国道134号の道です。
記憶では、国道134号は1956年に作られたので、戦後10年程は経済的に成り立っていた訳です。
砂鉄に関しての私の知織は、
50年前は海岸で磁石を紐につけて転がして歩くと江ノ島周辺で、簡単に砂鉄が手に入る。
40年前は松本清張が七里ガ浜の砂鉄を見て、鎌倉の刀剣作りの元はこの砂鉄ではないかと推測した事が本に書かれた。
しかし、戦後(60年前)に砂鉄を採取して仕事に成っていたとは、、知らなかった!
あの正宗工房でも、鉄の供給場所の話には答えが無かったのですが、、
物資が乏しい戦後とはいえ、、、奈良時代は、モット貴重なお宝で有ったと考えるのです。
東海道の終点である、、、鎌倉より先の常陸の国の海岸にもその様な海岸がある訳です。
とはいえ、
七里ガ浜が砂鉄の採取場所とぼ輔は考えている訳ではないのですが、、
それ程、鎌倉の山では鉄が豊富であったと言う根拠で、砂鉄を取り尽くした余剰として、七里ガ浜の砂鉄が在るのではないか?と考えるのです。東海道にしても、東山道武蔵路の最終目的地としても、古代の先進技術の粋に当たる「鉄を目当て」に鎌倉を目指す意味が有ると憶測するぼ輔です。

写真は、稲村が崎と砂鉄で黒く見える七里ガ浜の極楽寺川が流れ込む場所。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

御柱 2

2010年05月13日 | Weblog
御柱祭りには、諏訪神社の上社(2神社)と下社(2神社)の計4社分の柱を運ぶのですが、各社に4本の柱が必要で、4本×4社=16本の柱を運ぶ。
写真は上社の御柱(10t超)で、引きずった痕跡が道路にクッキリと残ります。
毎回死者がを出す祭りで、前回は川越えで一人、今回は神社に着いて柱を立てる時に二人亡くなった。

古代、重量物を運ぶ時は、修羅(そりの様な物)を使い下に転がり易いように丸太を使う
! そんな方法を使うのかと思いきや、、、
人力で強引に運ぶのですね!
(写真では路面が濡れていますが、雨が降った訳でなく、街角の90度曲がる難所で少しでも路面との抵抗を減らす為に水が撒かれているのです。)
川渡りは、、川の土手をこれ又強引に引き上げる!
イヤハヤ、、、
恐れ入りました!!
しかし、
唯一の道具の綱は、綱引きのロープを10本程マトメタほどの人の胴体ほどある綱です。
簡単には作れない物です。
綱置き場という、、、小屋を作って保管してある。
10tの大木を運搬するには、単なる素人では出来ない技術が絡む祭りです。
とび職と思われる人が大木の動きを予測して、指示を出し続けていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする