鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

大鎌倉城 4

2012年10月02日 | 大鎌倉城
新田義貞鎌倉攻めで 七口の切通を封鎖した。
        どの様に封鎖したのか??

> (北道倶楽部より)
> 小袋坂ー1851年には鶴岡八幡宮寺の岩瀬一学が峰の
> 高さを約3m掘り下げる普請を建長寺に申し入れ許可

> 鎌倉市史(考古学編)には
> (北道倶楽部より)亀ヶ谷坂切通し----
> 当時は現在の切通の上の方を狭い切通路が通っていたもの。
> これは前方に逆茂木を並べ切通上に陣を敷いて待ち構えて
> いたら、通る事は出来なかったろう。
> (「鎌倉市史(考古学編)」p178 )

同じく、朝比奈の切通、大仏切通でも江戸、明治時代に道路補修が行われた。

新田軍来襲で七口総べてを封鎖し、この封鎖の土壁で通行不可になった。
この七口封鎖の土壁は、鎌倉幕府敗戦の為に放置され江戸時代に補修されるまで続いた様です。  なぜなら、、
廃墟となった鎌倉の町で、出入りは人の足だけ!の交通困難な土地。
馬や車も困難な七口封鎖です。
財力が無いのに誰が道路工事をやるのでしょうか?
江戸時代に民間人が歩ける程度の補修をした。
明治の時代に人力車を通せる道は大仏切通だけで他は徒歩だけで通り抜けたと考えられる。
「七口封鎖のバリケード」の残骸は明治の時代まで通行の障害となっていた。
結果 一般人は 封鎖の残骸で通りにくい七口の他に、鎌倉時代の兵士移動用峯通し道を日常使い、峯の道が鎌倉街道の様に記された書籍が見受けられる。
明治迄の鎌倉人が日常でよく使う道と、七口は別物であった。

赤字は、私の憶測!!

太平記に「行く月に敵の陣を見ると、北は切通まで 高く路険しい、木戸や垣楯を造り、数萬の兵陣を並べて居た。」 と極楽寺坂偵察の結果で書かれた。
極楽寺の坂に木戸を作り閉鎖した????
そんな低いレベルの閉鎖では無いのです。
土石を盛って壁を作った!
問題は、どの程度の壁を作ったら防御に有効か???
2mでは、槍やナギナタで攻撃できる高さで、守る兵は足元を狙われるし、チョッとした台が有れば登れる。ーーーこれでは不可ですね。
3mか、、、それ以上の土砂を盛り上げた訳です。

写真は
 新田軍がこれから洲崎を攻めようと言う位置から洲崎を望む。
 右手にモノレールが見えその下に洲崎古戦場の碑がある。
 アパート郡は、高台の上に立っている。
 手前の平地は、柏尾川の沼地か田んぼであったのでしょう。
 それ以前の古墳時代は大きな湖であったと言う話もあります。
コメント
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