■世界最大の城!
私の知る限りは、中国の長安に巨大な囲郭都市があり、それを模倣して、京都、奈良の都は作られた。
平安、鎌倉時代の城は、ウィキペディアによると、
城郭遺跡専門家が書かれたと思える城の解説があり--平安時代後期、治承・寿永の乱においては『吾妻鏡』や『平家物語』、『山槐記』などの記録史料・日記に城郭の存在が記され、この頃の「城郭」は堀・掻盾。逆茂木など敵の進路を遮断するために設置したバリケードであると考えられている。
この程度の認識では「鎌倉城」の遺構を面前にしても見識が狭くて城と見抜けません。
鎌倉城の遺構は、常識を遥かに超える大きさで、その全容を調べるのは数年掛かる規模です。
現物を調査しない為か?城郭専門家の常識的な目で鎌倉周囲を散策し、単なる山にみえたのか??
要は、狭い視野の自称専門家だった訳です。
洲崎より攻撃した新田軍主流が山崎を乗り越え化粧坂を攻撃した。何故化粧坂を落とせなかったかを念頭にして、古文献を読み解き現地を確認して調べた人は、皆無で在った訳です。
洲崎を乗り越えると山崎で倉久保の谷(谷戸)に入り、見上げれば台峰となる。台峰上は化粧坂に続く鎌倉城の大手に当たる道です。化粧坂を攻める事と、台峰を攻める事は同じ事に成ります。
しかし、
新田軍は、倉久保の谷戸から台峰の上に上がる事は出来なかった。その理由は、現地の谷底に立ち自分で台峰の上に登る事を考えれば、専門家でなくても理解できる。
この時に、登り易そうに思える北鎌倉女子高校グラウンドの場所が、攻防の砦として働いたと考えるのです。
今は、登れる小道が数箇所作られています。
■平城京(奈良)や平安京(京都)は中国の囲郭都市長安城を模倣したが、防衛する城壁は造られなかった。
中国の様な他民族が攻めぎ合う関係が日本には無かった訳です。
それを攻撃したのは、平安京の中の木曽義仲や、平家を武力で追い出した源氏でした。
攻撃したのは、他民族ではなく、身内に敵は居たのでした。
次に攻撃されるのは鎌倉の都と頼朝は考えるでしょう。長安城を知れば、都を城壁で囲む知識は当然のごとく在った訳です。
それが「鎌倉城」
■中国での「城」の意味は都市を囲む壁を指していたが、後に壁で囲まれた内部も含み、壁の内側を「城」、壁の外側は「郭」と区別した。
「城」という言葉,漢字,意味は当然ながら中国から伝わったモノです。
更に、日本では、、、
長安の囲郭都市を真似て日本の平城京や平安京は造られた。しかし城壁の無い都市なので、敢えて「平安京城」とは言わない。
城の解釈に忠実な「平安京」の名前ですね。
これは、日本の奈良時代、平安時代、鎌倉時代の「城」の意味と解釈です。
歴史を調べるというのは、この様な移り変わりの事です。
■中国の長安城、日本の平城京、平安京、そして、鎌倉城!
この順序は長安の囲郭都市を模倣した都の変遷です。
奈良、平安の朝廷は、同一民族で対外の敵が無いと思って城郭は作らなかった。
平氏は融和政策で朝廷に取り入り、結果は朝廷内部で抗争を起こし、源氏に滅ぼされた。
朝廷に弓引く敵は身内に居り、三種の神器を持つ安徳天皇は源氏の手で壇ノ浦に沈んだ。
源氏は、武力で政治力を手に入れ 朝廷を押さえ鎌倉幕府をひらいた。武力の国家は、更に強い武力で潰される。武力のある義経を鎌倉から避けた理由も自分の座を奪われる恐怖でしょう。
この対策は、長安城を参考にして、鎌倉に囲郭を造れば良い訳です。
■鎌倉と長安の違いは、、
都市を囲む城壁の考えは共通ですが、、、
長安の場合は城壁や出入り口が戦闘拠点です。
しかし、鎌倉城では七口を封鎖して戦いますが、七口に敵を近づけない様に遠くに戦闘拠点の城砦(日本では砦)が在ることです。
鎌倉城には「都市を囲む城壁」の他に戦闘拠点の城砦という「砦」が在ったのです。
もう、、、ご推察されたでしょうが、、、
この城砦「砦」が、後の戦国時代や江戸時代迄造られた「40m四方を守る」主郭や天守閣のある一般的な城の原型と考えています。
鎌倉の城と、一般的な弱小氏族の城(トリデ)の「守るべき場所」広さの違いは、本丸江戸城で面積1600㎡、鎌倉は七口内側の面積13,721,416㎡で、比較するのもハバカル格差です。
■鎌倉城が一般的な城郭研究者に理解できなかった理由は、
「鎌倉城が無い派」の方が反論して頂ければ、その言葉を根拠に理由を書けるのですが、、
反論が無いため、憶測で語る事になります。
延々20Kmに及ぶ常識外の巨大な切岸を単なる自然な丘陵であろうと思ったのでしょう。
城ならば、土嚢、掘割、虎口、搦め手、等の痕跡が有るはず!等の常識的考えで探したと考えられる、、それは城砦が備える物であり、七口を結ぶ切岸は囲郭都市の単なる壁です。
都市を囲む城壁と城砦の区別が理解できないで鎌倉城探査をしたと憶測するのです。
城砦の備える痕跡を探すなら、七口の周辺には城砦はありません。在るのは峰に上がらせない為の「切岸」です。
化粧坂を守る砦ならその道の延長の台峰が攻防の場所です。臥龍峡から西の峰や質の違う砦の北鎌倉女子学園のグランド下から上の土橋迄に砦の痕跡はあります。
鎌倉城は、城砦を備えた囲郭都市であり、後年造られた総構えの城とは、全く別物です。構造も違うし、守るモノも違い、日本の城郭に詳しくなれば鎌倉城は本当に城か?と疑問を持つ構造と規模です。
既存の城の概念を根本から変え、視点を変えて観る必要があるのが鎌倉城です。
私の知る限りは、中国の長安に巨大な囲郭都市があり、それを模倣して、京都、奈良の都は作られた。
平安、鎌倉時代の城は、ウィキペディアによると、
城郭遺跡専門家が書かれたと思える城の解説があり--平安時代後期、治承・寿永の乱においては『吾妻鏡』や『平家物語』、『山槐記』などの記録史料・日記に城郭の存在が記され、この頃の「城郭」は堀・掻盾。逆茂木など敵の進路を遮断するために設置したバリケードであると考えられている。
この程度の認識では「鎌倉城」の遺構を面前にしても見識が狭くて城と見抜けません。
鎌倉城の遺構は、常識を遥かに超える大きさで、その全容を調べるのは数年掛かる規模です。
現物を調査しない為か?城郭専門家の常識的な目で鎌倉周囲を散策し、単なる山にみえたのか??
要は、狭い視野の自称専門家だった訳です。
洲崎より攻撃した新田軍主流が山崎を乗り越え化粧坂を攻撃した。何故化粧坂を落とせなかったかを念頭にして、古文献を読み解き現地を確認して調べた人は、皆無で在った訳です。
洲崎を乗り越えると山崎で倉久保の谷(谷戸)に入り、見上げれば台峰となる。台峰上は化粧坂に続く鎌倉城の大手に当たる道です。化粧坂を攻める事と、台峰を攻める事は同じ事に成ります。
しかし、
新田軍は、倉久保の谷戸から台峰の上に上がる事は出来なかった。その理由は、現地の谷底に立ち自分で台峰の上に登る事を考えれば、専門家でなくても理解できる。
この時に、登り易そうに思える北鎌倉女子高校グラウンドの場所が、攻防の砦として働いたと考えるのです。
今は、登れる小道が数箇所作られています。
■平城京(奈良)や平安京(京都)は中国の囲郭都市長安城を模倣したが、防衛する城壁は造られなかった。
中国の様な他民族が攻めぎ合う関係が日本には無かった訳です。
それを攻撃したのは、平安京の中の木曽義仲や、平家を武力で追い出した源氏でした。
攻撃したのは、他民族ではなく、身内に敵は居たのでした。
次に攻撃されるのは鎌倉の都と頼朝は考えるでしょう。長安城を知れば、都を城壁で囲む知識は当然のごとく在った訳です。
それが「鎌倉城」
■中国での「城」の意味は都市を囲む壁を指していたが、後に壁で囲まれた内部も含み、壁の内側を「城」、壁の外側は「郭」と区別した。
「城」という言葉,漢字,意味は当然ながら中国から伝わったモノです。
更に、日本では、、、
長安の囲郭都市を真似て日本の平城京や平安京は造られた。しかし城壁の無い都市なので、敢えて「平安京城」とは言わない。
城の解釈に忠実な「平安京」の名前ですね。
これは、日本の奈良時代、平安時代、鎌倉時代の「城」の意味と解釈です。
歴史を調べるというのは、この様な移り変わりの事です。
■中国の長安城、日本の平城京、平安京、そして、鎌倉城!
この順序は長安の囲郭都市を模倣した都の変遷です。
奈良、平安の朝廷は、同一民族で対外の敵が無いと思って城郭は作らなかった。
平氏は融和政策で朝廷に取り入り、結果は朝廷内部で抗争を起こし、源氏に滅ぼされた。
朝廷に弓引く敵は身内に居り、三種の神器を持つ安徳天皇は源氏の手で壇ノ浦に沈んだ。
源氏は、武力で政治力を手に入れ 朝廷を押さえ鎌倉幕府をひらいた。武力の国家は、更に強い武力で潰される。武力のある義経を鎌倉から避けた理由も自分の座を奪われる恐怖でしょう。
この対策は、長安城を参考にして、鎌倉に囲郭を造れば良い訳です。
■鎌倉と長安の違いは、、
都市を囲む城壁の考えは共通ですが、、、
長安の場合は城壁や出入り口が戦闘拠点です。
しかし、鎌倉城では七口を封鎖して戦いますが、七口に敵を近づけない様に遠くに戦闘拠点の城砦(日本では砦)が在ることです。
鎌倉城には「都市を囲む城壁」の他に戦闘拠点の城砦という「砦」が在ったのです。
もう、、、ご推察されたでしょうが、、、
この城砦「砦」が、後の戦国時代や江戸時代迄造られた「40m四方を守る」主郭や天守閣のある一般的な城の原型と考えています。
鎌倉の城と、一般的な弱小氏族の城(トリデ)の「守るべき場所」広さの違いは、本丸江戸城で面積1600㎡、鎌倉は七口内側の面積13,721,416㎡で、比較するのもハバカル格差です。
■鎌倉城が一般的な城郭研究者に理解できなかった理由は、
「鎌倉城が無い派」の方が反論して頂ければ、その言葉を根拠に理由を書けるのですが、、
反論が無いため、憶測で語る事になります。
延々20Kmに及ぶ常識外の巨大な切岸を単なる自然な丘陵であろうと思ったのでしょう。
城ならば、土嚢、掘割、虎口、搦め手、等の痕跡が有るはず!等の常識的考えで探したと考えられる、、それは城砦が備える物であり、七口を結ぶ切岸は囲郭都市の単なる壁です。
都市を囲む城壁と城砦の区別が理解できないで鎌倉城探査をしたと憶測するのです。
城砦の備える痕跡を探すなら、七口の周辺には城砦はありません。在るのは峰に上がらせない為の「切岸」です。
化粧坂を守る砦ならその道の延長の台峰が攻防の場所です。臥龍峡から西の峰や質の違う砦の北鎌倉女子学園のグランド下から上の土橋迄に砦の痕跡はあります。
鎌倉城は、城砦を備えた囲郭都市であり、後年造られた総構えの城とは、全く別物です。構造も違うし、守るモノも違い、日本の城郭に詳しくなれば鎌倉城は本当に城か?と疑問を持つ構造と規模です。
既存の城の概念を根本から変え、視点を変えて観る必要があるのが鎌倉城です。