ウィキペディアより
> 地名の由来は、「稲村ヶ崎と小動岬の間が7里(鎌倉時代、関東地方では6町
> を1里としていた。)あるからである」というのがこれまでの一般的な説で
> あったが、この「関東里」を用いても、稲村ヶ崎と小動岬との間は7里に満た
> ない。近年、「これは鶴岡八幡宮と腰越の間の距離であり、『浜七里』と
> 呼んだ」という説が出された。密教の「七里結界」に基づくもので、裏鬼門
> (南西)方向に7里の腰越までが浜七里だという。
> そして、鶴岡八幡宮の鬼門(北東)方向に野七里という地名が現存する
> (横浜市栄区)。八幡宮からこの野七里ま
> での直線距離は、関東里の7里に満たない。
この文章の問題として、、
「鶴岡八幡宮と腰越の間の距離」とされると、時系列に問題が起きる。
鶴岡八幡宮が基準ならば、「七里ヶ浜」の名称は八幡様造営後に作られた事に成る。
それ以前の名称は? なんて突っ込みたくなる話です。
古代の鎌倉は製鉄で栄えて郡衙があり、由井の長者の名が有る程の場所が 七里ヶ浜の名は八幡様の出来る前に名前が無かったと思えない。
一里は何キロでしょうか?
その辺りから考える話ですが、豊臣秀吉の太閤検地で使われた一里は3,927kmで 現代の尺貫法まで続いている。
七里ヶ浜の稲村ヶ崎から腰越の小動岬までの距離は2.7kmで一里未満です。
太閤検地より前は、
大化の改新を経て、日本に律令制が施かれ、天平十四(七四二)年の制定と言われている「条里」で使われた一里は654mで7倍は4.578Kmです。
厩牧令には30里(約16Km)ごとに駅家が設置された状況から、
16Km÷30里=0.53Km が一里とすれば、7倍は3.7Kmです。
稲村ヶ崎から腰越の小動岬まで2.7kmは5里となり、浜の長さでは無い様です。
そこで、鎌倉群衙(御成小学校)から7里の場所を探ると、3.975Kmで七里ヶ浜の真ん中になる!
天平「条里」や駅路でも、、鎌倉群衙より七里は七里ヶ浜の中心に当る。
太閤検地の七里では無い様です。
「八幡様!」の発想はそれ以前の時代が無い前提の考え方です。
その昔古代東海道が有った時代には、御成小学校(鎌倉駅脇)が有る場所に鎌倉郡衙が在った。 そこより距離3.975Kmの7里の場所に在る浜を「七里ヶ浜」と名付けたと考えるのです。
証菩提寺 野七里と呼ばれる延長の先にあり、鎌倉の鬼門になる。鎌倉郡衙より8里の処です。 に石橋山の戦いで源頼朝を逃がす為に戦死した佐那田与一忠の供養のため建立したとある。
基本的には、不浄、厄害などは、結界の外で行い中に入らせないのが建前ですので、鬼門除けは7里の外と考えるのです。義経は七里の結界の外にある腰越で待機させられ、元からの使者、日蓮や、まだ10歳の北条時行の鎌倉幕府再興と敗北での処刑。などは、同様に龍ノ口で処刑された。日蓮の顛末は法難という話で、処刑は免れた。
っとここまで書いたら、「北道倶楽部」「水石の美を求めて」に詳細が載っていました。きっと過去に私も見たはずで、、頭の奥に残っていたのでしょう。