新田軍其勢五十万七千余騎は遊行寺を横切り、柏尾川の西岸の村岡城、貝殻坂周囲に集まった。
主力部隊が目指すのは、対岸の洲崎である上町屋ですが、、、その間には柏尾川が有る。
川だけではなく、昔からこの場は沼地状態であり、橋を急造して洲崎に進撃をした場所です。
大正時代に柏尾川補修工事で新田軍が架けたと思われる橋脚跡が出土しており、その場所は神戸製鋼の敷地で有ったと言われている。
上図:橙色の粧坂から水堰橋は、鎌倉城大手道。
洲崎で勝利した新田軍は『山之内に進軍した記事』と『葛原で戦った記事』が有り、
文より 二手に分かれて化粧坂に向けて攻めたと考えられます。
山之内に進軍すれば、水堰橋が鎌倉城大手道で化粧坂へ向かう正面攻撃と成ります。
更に、
瓜ヶ谷に入り込めば、その奥は海蔵寺裏の大堀切で葛原ヶ岡を通る大手道を北から攻撃する事に成り化粧坂へ向かえます。
更に、梶原団地から攻め入ろうとすれば、葛原ヶ岡を通る大手道を南から攻撃する事に成り化粧坂へ向かえます。(この二手は、ピンク色に示した通り道。)
これが、古典文献の記事より考えられる新田軍の化粧坂攻略法と考えられます。
攻撃目的は、化粧坂と書かれていますが、「攻防の有ったのは葛原ヶ岡」と太平記や梅松論等の古典に書かれてある事です。
しかし、攻撃はしたが 鎌倉城は堅固で化粧坂に攻め込む事は不可でした。
この事より、
大仏坂より亀ヶ谷切通、小袋坂迄で、新田軍が入り込む場所は一切なかった訳で。
一番侵入しやすい場所は、鎌倉城の大手道より化粧坂と考えたのでした。
唯一化粧坂より水堰橋までの鎌倉城大手道も塞がれたと成れば、一般人が通る道は無くなる。
それが、鎌倉攻めの後に一般人が通る道は皆無で、戦争に負けた地を誰が修理するのか? 放置状態が江戸まで続いたのでしょう。
一般人は鎌倉城の兵員移動で使用した峰の道を歩き始め街道の代用にした事でしょう。
その後、江戸時代に朝比奈峠を通れるように補修したり、亀ヶ谷切通,小袋切通等の道路を補修した記録が出てきます。