鎌倉城北側防衛線ですが、小袋切通しより大平山に向けた尾根道の状況です。
赤色地図は、故意に峰の兵員移動の道を紫色破線にしています。
白い処は、傾斜が少ない処で移動が楽に出来る場所です。
赤い場所は傾斜の場所、強い傾斜は黒っぽくなり崖状態に成った場所=切岸です。
更に
防衛ラインより張り出した峰の下も切岸と成っており、複雑な構造と成り この峰を使い敵の背後を攻める構造でもあります。
これらの樹木の茂った峰は単なる山に見える訳ですが、、、人が登れない様に人工的に切岸は作られている。= 「三方を山に囲まれた天然の要塞!」では無い!!
実態は、自然の山裾を切岸にして作り上げた人工的な城です。
種々の城を見て詳しい人ほど、、、世界でも指折りの広大な城を、見破れない!っというより広過ぎて調べてない!
鎌倉市内を囲む今回示した切岸は、源頼朝時代から鎌倉を囲む城壁と考える。
其の後
元寇の対策として、鎌倉市内の防衛ラインより外部に張り出した峰も切岸を作り、攻撃の拠点としても使える馬場なども作られたと考えて居ます。
当時、鎌倉に居住した南宋の僧より元寇の情報を得て 鎌倉幕府は対策を取って城を作り上げたと考えられる。
その脇で日蓮が「私を信じなければ、国難が起きる!」と布教して捕まった訳で、精神的な問題じゃなく物理的な防禦体制を取らないと話に成らない事を、鎌倉幕府は南宋の僧から聞かされ危機意識を持っていたと考えて居ます。
実際の国難は、武力と博多湾の元寇防塁及び神風に依って排除され、、日蓮の警告は意味を為さなかった。
鎌倉城は単純な専守防衛の城では無く、攻撃基地の性格も併せ持つ構造と考えて居ます。
新田義貞の時、幕府側は兵力が足りず、今回紹介した防衛ラインを守るのが限界で在った訳です。
日本全国の武士が鎌倉に集まり元寇を倒す為の城を作った訳ですから、幕府側の兵員だけで守るには兵員が足りない とはいいながら、 新田義貞が化粧坂の防衛ライン正面突破を仕掛けたが、、、幕府側より数倍の兵士で攻めても、不可能だった訳です。