■ 記 2007年11月05日 古代駅路「源氏山」編 その5

古代駅路「源氏山」の路面の話です。
現代のセメントは、1824年イギリスで発明され、200年弱です。
何百年耐えれるか、実績は無い。
セメントは空気に触れる事で年々弱くなる。
理由は、強アルカリ性で長い目で見れば不安定な素材!
空気中の二酸化炭素によって中和され変質するのです。
固まった直後から、空気の触れたコンクリートの劣化が始まる。
この現象を含め様々の理由で、鉄筋コンクリートは耐久性が50年程に設定されている。
例えば、セメント堤防は機能するのが15年で、その先は塩害の支障がでる。
その様な例の前に、貴方の周囲の50年程経ったビルが、次々に取り壊されているのをご存知と思います。
考えられている程、鉄筋コンクリートは耐久性が無いと言う事です。
さて、話は変わり、日本古来の土木に「たたき」と呼ばれるものがあります。
昔は、古い家には土間と言われた場所が有りました。
玄関の土足で入れる場所や、炊事場が土間ですが、「たたき」と呼ばれる事もあります。
これは、叩いて土を固めた場所と理解していたのですが、、、
そうではなく、
たたき=「三和土」と書かれており、
土、消石灰、苦汁(にがり)を水で混ぜ、叩いて土の粒を密着させる。
すると、、、
一見土ですが、コンクリートの様に固まってしまうのです。
室内で使われ野外では通用しないヤワな土木工法ではなく、、、、
野外で使うと、、、
「長七たたき」で作られた四日市の潮吹き堤防は百年以上経て、今も現役です。
なんと、「たたき」は鉄筋コンクリートより耐久性のある代物であったのです。
さて、話は源氏山の道に使われた舗装ですが、
この「たたき」によって作られた舗装ではないか?
っとこれも勝手な ぼ輔の想像です。
でも、セメントの発明以前から、日本に伝わっている工法です。
人の手で土を叩いて土の粒を密着させる事の出来る厚さは、10~20CM程度と考えると、
この土の舗装の厚みを出すには、幾層にも作らなければならない訳です。
この、幾層にも造られた断面は、化粧坂上の地層(奈良時代の文献 2 2007-09-13)の写真のとおりです。(積層した状態の、、写りが悪い!!)
「鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?」2006-05-27 の路面でも、今回示したステレオ写真には、この厚みの積層された路面に共通性があります。(もっとも、長期間水に浸された状態で、スポンジの様に膨れあがっていますが、、)
■ 記 2007年11月09日 古代駅路「源氏山」編 その6

たたきには、二和土と三和土とあり、二和土は土と消石灰、三和土は土と消石灰と苦汁(にがり)を混ぜた様です。
苦汁を加える理由は、乾燥し過ぎて起きるヒビ割れ防止の様です。
万里の長城にも石灰が使われており、秦の時代は単なる石積でしたが、、
明の時代(1368年-1644年)から煉瓦積みで、その隙間の固定材に石灰を混ぜた土を使用しているそうです。
その使用実績は、300~600年ですね!
特に、吸湿性や吸気性がある処がコンクリートとの違いの様です。
良く使われた路面は、更に圧迫されて締まり路面は凹むが強固になり、
そんな状況が掘り出した駅路に有るそうです。
「古代駅路は、路面の硬化がある!」そんな言い回しをしますが、、、
これは、、路面が舗装してある!と修正しても良いのでは?
踏締められて硬化する以前に、舗装をしてあった訳でしょうから。
少なくとも源氏山の路面は、人工的に硬化された舗装です。
たたきの硬化はどの様に起こるか?
消石灰と空中の二酸化炭素が反応し 炭酸カルシウムが生じて土の粒を結び付ける。
消石灰と土の間にできる各種カルシウム系水和物も土の粒を結び付ける作用をします。
カルシウム系の化合物が土の粒と粒を結合する基となる訳です。
その時点で、「たたいて」粒と粒の空間を狭めると、尚一層強固に結びつく。
これが「たたき」と言われるユエンです。
さて今回の写真は、源氏山路面の硬化した状態を顕微鏡的にご覧下さい。
近頃のカメラは進歩して、接写すればコンナ写真まで写せる!
土、、、というより、砂の粒子が、白いモノに囲まれている様子が確認出来るでしょうか?
白いモノ=カルシュウム生成物と、、、ぼ輔は解釈するのですが、
■ 記 2007年11月18日古代駅路「源氏山」編 その7

さて、この古代駅路「源氏山」の舗装が造られた年代を考えてみましょう。
戦後にこの様な人手の掛かる工事は考えられません。
なぜなら、ハイキング程度に使われた道で舗装する理由がありません。
脇の排水溝がコンクリートで作られたのは、私の記憶では、1970年代で公園としての整備をした時に作られたと記憶しています。
その様な訳で、例え作るとしても化粧坂上のコンクリート舗装(雨水で路面の崩壊を補修)と同様に舗装されたでしょう。
明治から戦中は地元の人だけが使う道!この程度の使用頻度の少ない山道は、砂利も使わないでしょう。
江戸時代なら、、重要な朝比奈峠ですら、雑な工事をした程度で、、、
それでも工事をした石碑を作った訳で、、、
源氏山の様な使用頻度の無い道に立派な舗装をする財力は全く無いと考えられます。工事をしたならそれなりの石碑を残すでしょう。
鎌倉時代に、、、この様な舗装と道幅の山道を作る事は、大仏の切通しを考えれば防衛上に問題が起き、全面否定出来る程、立派な道ですね!
では、、、何時作ったのか?
ぼ輔には、鎌倉時代以前しか考えが浮かびません。
しかし、、、奈良時代初期の道としては、規模が足りません。
古代後期の道と考えるのです。
もしくは、古代前期の道を縮小した後期の道かもしれません。
■ 記 2007年11月27日 古代駅路「源氏山」編 その8

古代道路を語るとき、現存する遺構路面の大半は耐久性から自然石の路面(石畳)を持つ遺構と思われます。
しかし、人工硬化の舗装で使われ続けた古代路は、世界的に見ても稀、日本でこの路面以上に古いものは現段階で私は知りません。
古代道で有名なアッピア街道の石畳の道ですら、ローマ帝国の滅亡後、街道は永らく使用されなかったが、教皇ピウス6世の命により修復され再び利用されたっとなっています。
(ピウス6世:ローマ教皇在位:1775年2月15日-1799年8月29日)
その様な訳で、
無補修で、人工硬化の路面が使われ続けた古代路となると、世界的にも稀な道ではないでしょうか?
だからって、世界遺産にしよう! ってのは論外、、、
化粧坂の観光破壊の例があり、、、遺構の保存体制の取り組み方から考える必要を感じます。
現状のポリシーの無い商業的な世界遺産では、、
鎌倉大好き人間には迷惑な話です。
写真は、化粧坂上にある積層された路面跡と考える地層。
■ 記 2007年12月09日古代駅路「源氏山」編 その9

写真の場所は、化粧坂を登り、銭洗い弁天や葛原ヶ岡神社に向かう尾根道です。
写真の上に写っている車止めは、銭洗い弁天脇から葛原ヶ岡神社へ向かう道です。
とても平らで5m程の道幅がある表面が硬い道で、私の知る40年前と同じ状態の路面です。
方や、化粧坂は鎌倉特有な砂岩路面が40年で見るも無残な荒れ様です。
写真の場所は古代東海道の痕跡路面とぼ輔は考えていますが、源氏山のセンターラインのある道とは違う異質なモノを感じます。
異質なモノとは、、、
道を作るポリシーの違いを感じるのです。
この周辺は古代と言っても、時代により様々な考えで道を作り直したのではないか?
鎌倉の時代は800年前、奈良時代の初期は1300年前、その間500年の間が有るわけです。
その間の道筋も作り直しが何度か有ったようにぼ輔は考えています。
問題は、この路面の平らな理由、この路面の滑らかな理由、この路面幅の広い理由。
その理由をどの様に考えるか?
そして、この路面を誰が作ったのか?
ぼ輔は、古代東海道と解釈しましたが,
他に考え様が有りませんか?
■ 記 2007年12月18日 コメントのReです。

> T.M.@横浜 さん記 2007-12-13
> この道は、何回も歩いています。でも、私は、全く
> こういうことに気がつきませんでした(^^ゞ
ぼ輔も同様でして、、、
気にしていたのは、初期の頃からでしたが、、、
公園として整備したので、、この様に平面なのか?
その次は、化粧坂と同様に下は鎌倉特有の砂岩で平らなのか?
でも、、、この様に平らで、広く、滑らかな平面は葛原ヶ岡にも、源氏山にも無い!!
この場所特有な人工的に造られた特徴です。
そんな問題意識は、この数年で出来上がったものです。
尾根道で、周囲は崖で1200年の歳月と、頼朝が細工をしたかも等を考えれば、
5m程の道幅は残っているだけでも上出来かもしれません。
写真の上に写っている車止めは、銭洗い弁天脇から葛原ヶ岡神社へ向かう道で
戦時中に高射砲陣地を作る為に作られた砂利道と考えていますが、、、、
その砂利がこの滑らかな平面に流れ込んでいます。
これらの路面を対比をして貰えると、この路面の滑らかさは普通で無いのが
理解していただけると思います。
それに引換え、、源氏山の路面は少々粗いのが気になります。
風雪にモロニ晒された路面と、常時上から雨水に少量の土砂が運ばれカバーされ
た路面の違いなのか???
造られた時代がより古いと考えるこの場所の滑らかな路面状態が不思議です。
#######################################
> 陸路も重要ですが…
> 杉きち さん記
> 鎌倉から走水へ行き、房総には10キロ近く海を渡ります。
奈良時代初期の駅路のみを考えると、その痕跡は路面幅9m規格の道で
その様に作られた道路遺構は、朝比奈から六浦へと考えられます。
逗子、葉山から走水へは、路面幅9m規格の道が作れないし痕跡も無い。
朝比奈は路面幅が確保でき、東京湾に最短距離で行かれます。六浦港へから上総の国府へ直行するとなれば、走水から富津ではなく、
六浦より海路で市原へと考えるのが荷物の載せ代えをせず楽に行けるので合理的です。
古代の初期はそう考えていますが、
六浦港から、下総の市川へ船で行き、常陸国府の石岡へ行くのが合理的と考える様になりました。
> 早馬の頃には、鎌倉より大井の駅(東京・品川、荏原)を重視されますが…
> この辺りが、小生も混乱を来たしております。
東京湾が荒れて船が無理ならば、、
茅ヶ崎より海老名国分寺、武蔵国府、大井へ、
茅ヶ崎より中原街道、大井へ、
ハタマタ、江戸東海道が古代東海道のリメイクで有った可能性が有るならば、
六浦の状況を藤沢で受け、即江戸東海道に陸路で迂回できる。
藤沢より江戸東海道を抜け大井へ通る訳ですが、、、
池上本門寺の脇で伝路程度の道を掘り起こされた記録が有ったと思います。
> 「更級日記」の頃は、鎌倉の北の方を通ったとすると、
> この頃には、横浜北部・川崎中部・東京浅草辺りを通り平塚方面に至りますよね。
江戸東海道が古代伝路のリメイクであったなら「更級日記」の主人公が通った話の
ツジツマが合うのではないでしょうか?
当時、権太坂から柏尾川辺り戸塚へ入る手前が国境で、川を越したら相模の国!
遊行寺から茅ヶ崎に掛けた砂地の平地と山の切り立った状態を「屏風の様な山」
と例えたり、、、
如何でしょう?
> 御成小学校が鎌倉郡衙跡ですので走水や、また、荏原郡衙・橘樹郡衙・
> 高座郡衙への道
> 陸路では江戸東海道を、海路では六浦より鶴見、品川、へ、その先多
> 摩川より武蔵府中へ等が考えられます。
> 相模国衙・武蔵国衙・下総国衙への路へとの連絡路を鎌倉から描き出す
> のは、なかなか難しいですね。
高座郡衙、相模国衙へは古代東海道が直線的にあります。
しかし、連絡路的な伝路は道幅が狭く地域に根付き後世の生活道路にも使われ古道と判別が困難たと思えます。
例えば、藤沢市辻堂の四谷から平塚に向けた古代東海道の痕跡と考えてもよい道は、後年3mの道に改造され維持が楽なので大山道の名称を付けられ江戸時代に使われた。
江戸東海道の様に古代道か否か判定できない状態が多いのではないでしょうか?

古代駅路「源氏山」の路面の話です。
現代のセメントは、1824年イギリスで発明され、200年弱です。
何百年耐えれるか、実績は無い。
セメントは空気に触れる事で年々弱くなる。
理由は、強アルカリ性で長い目で見れば不安定な素材!
空気中の二酸化炭素によって中和され変質するのです。
固まった直後から、空気の触れたコンクリートの劣化が始まる。
この現象を含め様々の理由で、鉄筋コンクリートは耐久性が50年程に設定されている。
例えば、セメント堤防は機能するのが15年で、その先は塩害の支障がでる。
その様な例の前に、貴方の周囲の50年程経ったビルが、次々に取り壊されているのをご存知と思います。
考えられている程、鉄筋コンクリートは耐久性が無いと言う事です。
さて、話は変わり、日本古来の土木に「たたき」と呼ばれるものがあります。
昔は、古い家には土間と言われた場所が有りました。
玄関の土足で入れる場所や、炊事場が土間ですが、「たたき」と呼ばれる事もあります。
これは、叩いて土を固めた場所と理解していたのですが、、、
そうではなく、
たたき=「三和土」と書かれており、
土、消石灰、苦汁(にがり)を水で混ぜ、叩いて土の粒を密着させる。
すると、、、
一見土ですが、コンクリートの様に固まってしまうのです。
室内で使われ野外では通用しないヤワな土木工法ではなく、、、、
野外で使うと、、、
「長七たたき」で作られた四日市の潮吹き堤防は百年以上経て、今も現役です。
なんと、「たたき」は鉄筋コンクリートより耐久性のある代物であったのです。
さて、話は源氏山の道に使われた舗装ですが、
この「たたき」によって作られた舗装ではないか?
っとこれも勝手な ぼ輔の想像です。
でも、セメントの発明以前から、日本に伝わっている工法です。
人の手で土を叩いて土の粒を密着させる事の出来る厚さは、10~20CM程度と考えると、
この土の舗装の厚みを出すには、幾層にも作らなければならない訳です。
この、幾層にも造られた断面は、化粧坂上の地層(奈良時代の文献 2 2007-09-13)の写真のとおりです。(積層した状態の、、写りが悪い!!)
「鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?」2006-05-27 の路面でも、今回示したステレオ写真には、この厚みの積層された路面に共通性があります。(もっとも、長期間水に浸された状態で、スポンジの様に膨れあがっていますが、、)
■ 記 2007年11月09日 古代駅路「源氏山」編 その6

たたきには、二和土と三和土とあり、二和土は土と消石灰、三和土は土と消石灰と苦汁(にがり)を混ぜた様です。
苦汁を加える理由は、乾燥し過ぎて起きるヒビ割れ防止の様です。
万里の長城にも石灰が使われており、秦の時代は単なる石積でしたが、、
明の時代(1368年-1644年)から煉瓦積みで、その隙間の固定材に石灰を混ぜた土を使用しているそうです。
その使用実績は、300~600年ですね!
特に、吸湿性や吸気性がある処がコンクリートとの違いの様です。
良く使われた路面は、更に圧迫されて締まり路面は凹むが強固になり、
そんな状況が掘り出した駅路に有るそうです。
「古代駅路は、路面の硬化がある!」そんな言い回しをしますが、、、
これは、、路面が舗装してある!と修正しても良いのでは?
踏締められて硬化する以前に、舗装をしてあった訳でしょうから。
少なくとも源氏山の路面は、人工的に硬化された舗装です。
たたきの硬化はどの様に起こるか?
消石灰と空中の二酸化炭素が反応し 炭酸カルシウムが生じて土の粒を結び付ける。
消石灰と土の間にできる各種カルシウム系水和物も土の粒を結び付ける作用をします。
カルシウム系の化合物が土の粒と粒を結合する基となる訳です。
その時点で、「たたいて」粒と粒の空間を狭めると、尚一層強固に結びつく。
これが「たたき」と言われるユエンです。
さて今回の写真は、源氏山路面の硬化した状態を顕微鏡的にご覧下さい。
近頃のカメラは進歩して、接写すればコンナ写真まで写せる!
土、、、というより、砂の粒子が、白いモノに囲まれている様子が確認出来るでしょうか?
白いモノ=カルシュウム生成物と、、、ぼ輔は解釈するのですが、
■ 記 2007年11月18日古代駅路「源氏山」編 その7

さて、この古代駅路「源氏山」の舗装が造られた年代を考えてみましょう。
戦後にこの様な人手の掛かる工事は考えられません。
なぜなら、ハイキング程度に使われた道で舗装する理由がありません。
脇の排水溝がコンクリートで作られたのは、私の記憶では、1970年代で公園としての整備をした時に作られたと記憶しています。
その様な訳で、例え作るとしても化粧坂上のコンクリート舗装(雨水で路面の崩壊を補修)と同様に舗装されたでしょう。
明治から戦中は地元の人だけが使う道!この程度の使用頻度の少ない山道は、砂利も使わないでしょう。
江戸時代なら、、重要な朝比奈峠ですら、雑な工事をした程度で、、、
それでも工事をした石碑を作った訳で、、、
源氏山の様な使用頻度の無い道に立派な舗装をする財力は全く無いと考えられます。工事をしたならそれなりの石碑を残すでしょう。
鎌倉時代に、、、この様な舗装と道幅の山道を作る事は、大仏の切通しを考えれば防衛上に問題が起き、全面否定出来る程、立派な道ですね!
では、、、何時作ったのか?
ぼ輔には、鎌倉時代以前しか考えが浮かびません。
しかし、、、奈良時代初期の道としては、規模が足りません。
古代後期の道と考えるのです。
もしくは、古代前期の道を縮小した後期の道かもしれません。
■ 記 2007年11月27日 古代駅路「源氏山」編 その8

古代道路を語るとき、現存する遺構路面の大半は耐久性から自然石の路面(石畳)を持つ遺構と思われます。
しかし、人工硬化の舗装で使われ続けた古代路は、世界的に見ても稀、日本でこの路面以上に古いものは現段階で私は知りません。
古代道で有名なアッピア街道の石畳の道ですら、ローマ帝国の滅亡後、街道は永らく使用されなかったが、教皇ピウス6世の命により修復され再び利用されたっとなっています。
(ピウス6世:ローマ教皇在位:1775年2月15日-1799年8月29日)
その様な訳で、
無補修で、人工硬化の路面が使われ続けた古代路となると、世界的にも稀な道ではないでしょうか?
だからって、世界遺産にしよう! ってのは論外、、、
化粧坂の観光破壊の例があり、、、遺構の保存体制の取り組み方から考える必要を感じます。
現状のポリシーの無い商業的な世界遺産では、、
鎌倉大好き人間には迷惑な話です。
写真は、化粧坂上にある積層された路面跡と考える地層。
■ 記 2007年12月09日古代駅路「源氏山」編 その9

写真の場所は、化粧坂を登り、銭洗い弁天や葛原ヶ岡神社に向かう尾根道です。
写真の上に写っている車止めは、銭洗い弁天脇から葛原ヶ岡神社へ向かう道です。
とても平らで5m程の道幅がある表面が硬い道で、私の知る40年前と同じ状態の路面です。
方や、化粧坂は鎌倉特有な砂岩路面が40年で見るも無残な荒れ様です。
写真の場所は古代東海道の痕跡路面とぼ輔は考えていますが、源氏山のセンターラインのある道とは違う異質なモノを感じます。
異質なモノとは、、、
道を作るポリシーの違いを感じるのです。
この周辺は古代と言っても、時代により様々な考えで道を作り直したのではないか?
鎌倉の時代は800年前、奈良時代の初期は1300年前、その間500年の間が有るわけです。
その間の道筋も作り直しが何度か有ったようにぼ輔は考えています。
問題は、この路面の平らな理由、この路面の滑らかな理由、この路面幅の広い理由。
その理由をどの様に考えるか?
そして、この路面を誰が作ったのか?
ぼ輔は、古代東海道と解釈しましたが,
他に考え様が有りませんか?
■ 記 2007年12月18日 コメントのReです。

> T.M.@横浜 さん記 2007-12-13
> この道は、何回も歩いています。でも、私は、全く
> こういうことに気がつきませんでした(^^ゞ
ぼ輔も同様でして、、、
気にしていたのは、初期の頃からでしたが、、、
公園として整備したので、、この様に平面なのか?
その次は、化粧坂と同様に下は鎌倉特有の砂岩で平らなのか?
でも、、、この様に平らで、広く、滑らかな平面は葛原ヶ岡にも、源氏山にも無い!!
この場所特有な人工的に造られた特徴です。
そんな問題意識は、この数年で出来上がったものです。
尾根道で、周囲は崖で1200年の歳月と、頼朝が細工をしたかも等を考えれば、
5m程の道幅は残っているだけでも上出来かもしれません。
写真の上に写っている車止めは、銭洗い弁天脇から葛原ヶ岡神社へ向かう道で
戦時中に高射砲陣地を作る為に作られた砂利道と考えていますが、、、、
その砂利がこの滑らかな平面に流れ込んでいます。
これらの路面を対比をして貰えると、この路面の滑らかさは普通で無いのが
理解していただけると思います。
それに引換え、、源氏山の路面は少々粗いのが気になります。
風雪にモロニ晒された路面と、常時上から雨水に少量の土砂が運ばれカバーされ
た路面の違いなのか???
造られた時代がより古いと考えるこの場所の滑らかな路面状態が不思議です。
#######################################
> 陸路も重要ですが…
> 杉きち さん記
> 鎌倉から走水へ行き、房総には10キロ近く海を渡ります。
奈良時代初期の駅路のみを考えると、その痕跡は路面幅9m規格の道で
その様に作られた道路遺構は、朝比奈から六浦へと考えられます。
逗子、葉山から走水へは、路面幅9m規格の道が作れないし痕跡も無い。
朝比奈は路面幅が確保でき、東京湾に最短距離で行かれます。六浦港へから上総の国府へ直行するとなれば、走水から富津ではなく、
六浦より海路で市原へと考えるのが荷物の載せ代えをせず楽に行けるので合理的です。
古代の初期はそう考えていますが、
六浦港から、下総の市川へ船で行き、常陸国府の石岡へ行くのが合理的と考える様になりました。
> 早馬の頃には、鎌倉より大井の駅(東京・品川、荏原)を重視されますが…
> この辺りが、小生も混乱を来たしております。
東京湾が荒れて船が無理ならば、、
茅ヶ崎より海老名国分寺、武蔵国府、大井へ、
茅ヶ崎より中原街道、大井へ、
ハタマタ、江戸東海道が古代東海道のリメイクで有った可能性が有るならば、
六浦の状況を藤沢で受け、即江戸東海道に陸路で迂回できる。
藤沢より江戸東海道を抜け大井へ通る訳ですが、、、
池上本門寺の脇で伝路程度の道を掘り起こされた記録が有ったと思います。
> 「更級日記」の頃は、鎌倉の北の方を通ったとすると、
> この頃には、横浜北部・川崎中部・東京浅草辺りを通り平塚方面に至りますよね。
江戸東海道が古代伝路のリメイクであったなら「更級日記」の主人公が通った話の
ツジツマが合うのではないでしょうか?
当時、権太坂から柏尾川辺り戸塚へ入る手前が国境で、川を越したら相模の国!
遊行寺から茅ヶ崎に掛けた砂地の平地と山の切り立った状態を「屏風の様な山」
と例えたり、、、
如何でしょう?
> 御成小学校が鎌倉郡衙跡ですので走水や、また、荏原郡衙・橘樹郡衙・
> 高座郡衙への道
> 陸路では江戸東海道を、海路では六浦より鶴見、品川、へ、その先多
> 摩川より武蔵府中へ等が考えられます。
> 相模国衙・武蔵国衙・下総国衙への路へとの連絡路を鎌倉から描き出す
> のは、なかなか難しいですね。
高座郡衙、相模国衙へは古代東海道が直線的にあります。
しかし、連絡路的な伝路は道幅が狭く地域に根付き後世の生活道路にも使われ古道と判別が困難たと思えます。
例えば、藤沢市辻堂の四谷から平塚に向けた古代東海道の痕跡と考えてもよい道は、後年3mの道に改造され維持が楽なので大山道の名称を付けられ江戸時代に使われた。
江戸東海道の様に古代道か否か判定できない状態が多いのではないでしょうか?
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