学校教育では、ヒロシマ、ナガサキ、沖縄、第二次世界大戦のときの大空襲などの学習をとおして、平和教育をいまの10代の児童生徒に実践しています。
しかし、その一方で世界では、ウクライナ、ガザ侵攻が毎日のように報道されます。
私たちはメディアを通じて知る世界の不条理や不正義に怒りを覚えます。
時として、学校の教員のなかには、平和学習に無力感を感じる人がいてもおかしくはないかもしれません。
世界で起きている紛争や戦争をただすための行動が見つからないのも、私たちふつうの市民が感じるジレンマです。
たしかに、デモに参加するなどして自分の意思を明らかにすることは可能です。
でも、そうした行動は日本では強力ではなく、不正義をただす活動が継続的な力になっていないのが現実です。
そこで悲劇的な、世界の平和でない状況について断片的な情報で一喜一憂することから目をそむけるという考えが生まれてきます。
戦争に向き合うよりも、日常生活で出会う人たちなど、たわいもないことに感謝し、その人たち日々仲良くしていくことのほうがよほど現実的である。
そういうしあわせを享受すればいい。
このように、世界の現実に目を背け、身近なしあわせを大切にする。
そのような心情を、いまの日本で多くの人びとが抱くのではないでしょうか。
しかし、私たちの日常の「身近なしあわせ」と世界で起きている不条理や悲劇的な戦争とがまったく次元の違うこととみなされ、つながっていないのはどうしようもないことなのでしょうか。
そうではないと考えます。
学校での平和学習は、おもに過去の戦争を学び
平和を希求する願いと態度を育てるという方法で実践されています。
でも、過去と現在は地続きであり、過去の戦争と現在の戦争は、隣り合わせなのです。
過去の歴史に学び、その悲惨さを知るだけでなく、現在の世界の平和について見つめ考える学習にまで、学校の平和教育を発展させるべきです。
学校だけでなく、私たちは目に見えない大きな壁で囲われた環境に閉じこもり、壁の外の環境が自分たちの世界と隣り合わせであることを、無視しないで日々を過ごしていきたいと思うのです。
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