東京オリンピックが謳っていた「多様性と調和」それ自体はすばらしい概念です。
グローバル時代にふさわしい言葉でした。
学校教育の中でも、「ちがいを認めあう」とか「ちがいをを豊かさに」という標語で、多文化共生教育を40年近く進めてきました。
たとえば、自治体にもよりますが、日本国内には外国人の集住地域があり、そこを校区にもつ学校には、「外国につながる子」、外国にルーツをもつ子がたくさん通ってきます。
また、外国人の少数点在地域からも、何人かの外国にルーツをもつ子が、学校に通ってきます。
外国にルーツをもつ子が多い学校であろうが、少ない学校であろうが、日本語指導の必要性に軽重はありません。
さて、その子たちを受け入れた経験から言いますと、多様性が調和するのは、それほど簡単なことではありません。
異なる民族や文化をもつ人がいっしょに暮らしたり、生活を共にしたりなると、当然葛藤や衝突が起こります。
ですから、ほんとうに共に生きたり、共生して調和しようとするなら、努力がいります。覚悟もいります。
マイノリティの子を排除したりしないよう、学校でのしくみがいります。
社会でなら、制度や法の整備がいるのです。
しかし、今回のオリンピックでは、ジェンダーバイアスに基づく問題発言や障害者との共生とはほど遠いできごとがありました。
また、大会終了後も自治体の長が、公式な表敬訪問の場で、女性アスリートに「彼氏はいるの?」と尋ねたり。
これが、「共生と調和」を掲げた日本の実態です。
でも、連続して起こったからこそ、問題が明らかになりました。ここからがスタートです。
学校では、おとなたちの中に偏見があることも含めて学習して、次世代の人たちが「多様性と調和」で、マイノリティとマジョリティが対等に暮らしていく社会づくりの担い手として育ってほしいと願います。
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