みどりの野原

野原の便り

2月23日 太子道 田原本町~三宅町へ ①午後の部 三宅町

2014年02月23日 | Weblog
午後は三宅町へ。
 
田原本町「ももたん」から三宅町「みやっぴぃ」に引き継ぎ。
三宅町は奈良県で1番面積の小さい町(4.07㎡)・全国でも2番目(1番大阪府忠岡町4.03㎡)です。斑鳩から飛鳥へ通われた聖徳太子をもてなした「おもてなし」の発祥の地です」とボランティアガイドさんから説明があった。

三宅町では万葉集に因む「あざさ」を増やす取り組みをしていると紹介があった。
あざさ?何のことかと思ったら「アサザ」のこと。万葉の頃は「アザサ」と言ったのかな? 昔はアサザが生育するような湿地だったようだ。


万葉歌碑の近くで万葉の歌と踊りでおもてなしをしてくださった。

 
今も生活道として使われている太子道 道中には聖徳太子にまつわる伝説が残る。

    
       伴堂 杵築神社          石工 佐吉作の狛犬     

 
 おかげ踊りなどの絵馬が残る。  境内社 厳島神社の株立ちカシの木


太子道のそばにあるケヤキに抱かれているような地蔵さま「抱かれ地蔵」

 
屏風にも杵築神社がある。(同名でややこしい) 拝殿のおかげ踊りの絵馬

  
    甘酒のおもてなしを受ける。        紙芝居        

 
向かいにある白山神社には「聖徳太子の腰かけ石」聖徳太子への接待の際、後ろに立てた屏風が地名「屏風」の由来。     右)「駒つなぎのヤナギ」が残る。

川西町に入り観世発祥の地 面塚等を見て近鉄結崎駅に到着
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2月23日 太子道 田原本町~三宅町へ ①午前の部  田原本町

2014年02月23日 | Weblog
記紀万葉プロジェクトの一環のイベント。
①午前中は田原本町のボランティアさんの案内で・②午後は三宅町の定点ボランティアさんの解説ともてなしを受ける。

 
田原本のゆるキャラ「ももたん」今4歳 に見送られ・・町の花スイセンも見ごろ。

田原本は奈良県の中部の穀倉地。昔は大阪堺よりの水運が盛んで「大和の大坂」と言われる豊かな町だった。
賤ヶ岳七本槍と言われた平野長春の領地となり、寺内町としても発達した。平野家は明治まで280年間続いた旗本。
また、聖徳太子が飛鳥から斑鳩へと馬で通われた太子道(条理に対し斜行しているため筋かい道ともいう)が残る。

 
八幡神社境内に残る「薬王寺の大クス」幹周り6.18m 樹齢は550年余 
この辺りには薬王寺という天武天皇時代の創建の七堂伽藍の備わった大寺があったそうだ。
焼失して今は大字としてのみ残る。周辺には護摩堂・坊垣内・大門など寺にまつわる小字も残る。


保津の環濠集落 鎌倉時代に作られ2重の環濠を備えていた。出入りの橋は夜は取り外され外敵の侵入を防いていた。

今年は行かなかったが、お正月には田原本の多神社や鏡作神社(八尾)によくお参りする。
田原本周辺は古くから鏡作り部が多く住み、鏡作りが行われていたらしい。
町内に「鏡作」の名を持つ神社がいくつかあることは聞いていたが、来る機会がなかったのだが、その二つを今日訪れることが出来たのがうれしかった。

 
(保津)鏡作伊太神社(かがみつくりいたじんじゃ)  ひっそりした小さい社だ。

 
(宮古)ここにも同名 鏡作伊太神社 がある。

田原本には、①八尾の鏡作神社(初詣に行ったことのある立派な社殿) 上記の ②その末社 保津の鏡作伊太神社 ③同じく末社の宮古の鏡作伊太神社 まだ行ったことのない④小坂にある鏡作麻気神社(かがみつくりまけじんじゃ)の4社がある。
「伊太」は鋳造と、「麻気」は研磨と関係があるようだ。分業になっていたのかも。

そして、三宅町の石見にもうひとつ鏡作神社があるらしい。
小坂の鏡作麻気神社 石見の鏡作神社にはまた行ってみたいと思う。

次に立ち寄った地域の公民館かと思うような小さな建物

 
ここは聖徳太子創建の大伽藍で廃寺となった常楽寺の「薬師堂」だという。
古い瓦の載った手前の部分の中には立派な薬師如来座像があった。
桧の1材作り漆箔仕上げ(国の重文)
薬師堂付近やそばの池からは多数の泥塔が出土したらしい。

24号線バイパスを西へくぐり、今も生活道として使われている太子道を通り・・

 
池の堤にはサクラではなくモモが植わる。田原本は「桃太郎の生誕地」といわれる。             右)黒田 孝霊神社(元法楽寺の鎮守社 庵戸神社とも)


  天地山 法楽寺 

桃太郎のモデルになったのは第7代孝霊天皇の第3皇子 吉備津彦命(彦五十狭芹彦)だという。
黒田 庵戸宮で誕生していることから誕生地としているらしい。 

 
黒田 大塚古墳 墳丘の全長70mの前方後円墳 2段築成の前方後円墳 幅8mの周濠をめぐらせた大型古墳だった。
ここで午前の部が終了。昼食の後、午後の三宅町へ引き継ぐ。
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