史跡めぐり。大和郡山で集合。
条坊の跡をたどって大安寺まで歩く。
平城京は「条坊制」という都市計画に基づいて作られていた。
平城京の中央南北に貫いていたのが「朱雀大路」
大極殿南の正門・朱雀門から都の入り口・羅城門まで4キロ・幅約70mもあったらしい。
宮城から見て、左が左京・右が右京
それぞれ南北に走る「坊」・東西に走る「条」という大路によって碁盤目に区画されている。
1つの区画は530m四方
さらに、この区画を16分割して小路で分けられていたという。
条坊を言えばすぐさまその場所が特定できる仕組みの町割りだった。
「今いるところは右京九条13坪?です」ここから六条まで歩く予定。
「平城京 九条大路跡」の碑
羅城門跡
佐保川を跨ぐ羅城門橋 このあたりに平城京の正門(入口)羅城門があったという。
説明版があるだけで、遺構らしいものは何もない。 右)羅城門復元模型図
中国でいう羅城門のような要塞的なものではなく、朱雀門と同じような瓦葺の建物だったらしい。
この4キロ先に朱雀門があり、大極殿があるのだが・・ あのクレーンの向こうかな?
倭文神社(しずりじんじゃ)
倭文神社には 武羽槌雄神(たけみかづちのおのみこと) 経津主神(ふつぬしのかみ) 誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇) の3神が祀られている。
武羽槌雄神を祖神とする倭文氏によって祀られたという。
「倭文(しずり 又は、しとり)織り」というのは日本古来の織物で神事に使われていたが、実物がわかっていず、幻の織物らしい。
秋に面白い祭りが行われるという。
「東の市(ひがしのいち)」跡
平城京の東・西2か所に官営の市場が設けられていたという。
この辺が「東の市」跡、といってもそれらしいものは見当たらない。
資料を見ると、51もの店があったらしい。
〇〇壥(土へん ではなく、こざとへん だが手書き検索でも出ません)
店の意味だそうで勝手に店に変換する)
東絁店(ひがしあしぎぬてん)(庶民向けの?絹織物?)・羅店・錦店・木綿店・苧・帯店・絲店・・・櫛・針・巾子・縫衣(仕立て屋?)・沓・・・太刀・弓・兵具・鐙・・・油・米・麦・心太・菓子・干魚・生魚・馬・・・珠・玉・丹・筆・・・食料品から衣料品から兵具などなど・・なんでも揃いそう。賑わったことだろう。
一方、公開処刑が行われた場所でもあったらしい。 こわ~~。
田園地帯を東~北へ歩く。
八幡神社
見たことがあるなーと思ったら、大安寺近くの八幡神社だった。
右)奥の中門が修理中だった。
南へ抜けると、大安寺 塔跡(復元された基壇)に出た。
大安寺 東塔跡(ブタナが繁っていた) 西には西塔跡 礎石が残る。
基壇の上に高さ70mの2つの塔が聳えていた。
ここは「塔院」といい、大安寺中心の伽藍からは離れたところにある。
大安寺
日本最古の寺院の1つ。平城京遷都に伴い、飛鳥にあった大官大寺を移したもの。
がん封じでも有名だ。
度重なる災禍で大安寺の規模は小さくなってしまったが、旧境内は広大だったようだ。
お昼を済ませて本堂へ。入る前に掌に塗香という粉を載せてもらい手にこすりつけた。
心と身の穢れを除くという。
お話を聞いた後、宝物殿を見学
6体の仏像があった。本堂の秘仏 11面観音とともに、すべて重文指定を受けている天平仏。
とはいえ、私は境内のモクゲンジや花盛りのボダイジュの方が気になるのです。
近くの小学校は元、講堂のあったところ。経蔵跡(石碑のみ)など・・
周辺には旧境内の名残がところどころある。
ここは僧房跡だという。基壇が復元されている。
立ち並ぶ僧房は全寮制でかつては887人(?)の僧たちが暮らしていたそうな。
このあたりで解散となる。