みどりの野原

野原の便り

2月19日 橿原神宮~神武天皇陵~今井町

2021年02月19日 | Weblog

身近で、知ってるようで知らない橿原神宮 近いけれどしっかり回ったことがない今井町
今日は説明をいっぱい聞いた。(聞き間違いがあるかもしれない。ご容赦お願いします)
良く研究された歴史の達人の会員さんの説明で、知らなかったことがたくさん分かった。

橿原神宮
宮址顕彰の機運が高まり・・
明治23年(1890)この地に創建された。社殿は京都御所の賢所と新嘉殿が下賜されたもの。
昭和15年(1940)紀元2600年 国を挙げて奉祝記念行事。
森づくりも全国から集まった多数の勤労奉仕の人々によって行われ、樹木は全国からの献木22000本を含め、76000本が植えられた。
道路の建設、鉄道や駅の付け替えなどの大工事。その後も整備が進んで今の姿になった。



一の鳥居 初代(1939年)2019年に立替完了した。
柱は当初の台湾産ヒノキからカナダ産のヒノキに替わった。古い部材をそのまま使っている部分もある。 


深田池 ヒドリガモが目立った。
日本書紀で、推古天皇の時に作られたという溜池、掖上池・和珥池と共に記述のある「畝傍池」ではないか?と言われているそうだ。


南神門 今年は紀元2681年にあたる。
「紀元」とは、初代神武天皇が即位された年を元年とする紀年法。
神門をくぐって外拝殿前の広場へ。

内拝殿の奥に、幣殿の屋根の千木が少し見えた。


有名な 干支の大絵馬 いつも集合写真はここだ。
この大絵馬は普通の絵馬の1600倍の大きさ。畳14枚分あるそうだ。

参道を流れる川が神武田川(じぶたがわ)というのを初めて知った。
川の側面の石垣の石は金塚古墳のものらしい。
神武田川は森の中を流れている桜川と合流するのだと思う。

北神門を出て神武天皇の御陵に向かう。

神武天皇 畝傍山東北陵 (うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)  

広い参道を進むと、奥に御陵がある。
私たちが見ることができるのはここまで。
円丘の周りに濠が巡っているそうだが、見えない。

何もなかったここが、どんな経緯で神武天皇陵に比定されたのか。

候補地がいくつかあり、主な3つ ①古事記に畝傍の山の北方の稜にあったと記される「丸山」
(だいぶ前、畝傍山の中を探検?した時、石柱の並んだところがあった。ここのことか?)
②小さな円墳のあったところ。 四条町の「塚山」
③小さい塚のあった「ミサンザイまたは神武田(じぶでん)」と言われたところ。

この3つの候補の中から、孝明天皇が③のミサンザイの地に決定されたという。

毎年、4月3日の神武天皇祭には勅使がこの神武天皇陵に参拝されるらしい。

綏靖天皇 桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)
神武天皇御陵からすぐ近くにある。
これが、上記の②「塚山」と言われたところ。
それ以前に神武天皇陵とされていたこともあったらしい。

今井町
今井まちなみ交流センター「花甍(はないらか)」


今井まちなみ交流センター・花甍(奈良県の指定文化財)
和洋折衷の美しい明治建築だ。
明治36年(1903)高市郡教育博物館として建設され、昭和4年からは今井町役場として使用。
平成7年(1995)修理復元されて、今井まちなみ交流センターとして開館。


ジオラマで今井町が一望できる。概要説明を聞いた。
江戸時代の街並みがそのまま残る。
今も500軒の町家が残る。その内の10数軒は国の重要文化財指定
平成5年(1993)寺内町として「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された。

重要文化財になっている町家のミニチュアもあり、資料の展示もたくさんあり、短時間では見切れない。

谷三山の顕彰碑


今日は案内されなかったが、華甍の前、道路に面したところに「谷三山の顕彰碑」が建っている。
10代で聴力を失い、目も患いながら、裕福で学問に理解のある家族の元、多くの書物を読み、学問を究め、私学「興譲館」を開き、後に活躍する多くの門人を育てた。
吉田松陰に「師の中の師」「日本一の大学者」と言わせた儒学者。著名人との交流も多かったという。
高取藩に認められ士籍を与えられ仕え意見書を出すなどした。八木の偉人。
(去年1月19日の講演会に参加)

午後からは今井町の町巡り
今井町の成立は『戦国の世、天文年間に、この地に一向宗本願寺坊主の今井兵部卿豊寿によって寺内町が建設されたことに始まる。
一向宗門徒が、都市計画に基づき、今井に御坊(称念寺)を開き、自衛上武力を養い、濠を巡らせた』(パンフより)
石山寺本願寺とともに織田信長に抵抗。後降伏したが、許され、信長から自治特権を与えられた。
武装宗教都市から、その後、商業都市として発展。江戸時代には南大和最大の町となる。
「大和の金は今井に7分」といわれたぐらい栄えた。

東の道路は濠の跡。
濠には木橋が架かり、寺内町へは木橋を渡り、門を通って出入りする。
門は全部で9つあり、夜間には閉められた。

説明を受けながら町巡り。
町家の外観を見学したり、内部を見学したところもある。詳細は省略。


*中尊坊通り 電線は地下に埋設され、すっきりした今井の町並み。

*防火対策
密集している町並みで火災が起これば一気に町中に燃え移ることは必至で、火災には特に注意が払われていたことだろう。

家の屋根瓦の下に土を厚く敷いてあるのも類焼を防ぐ対策の1つらしい。
もし火災が発生しても(土が落ちて)隣に類焼しないようにしてあるのだとか。
 

中町筋生活広場 防火水槽80トン
案内地図によると、町並みの中に防火水槽が6か所ほど書いてある。
それぞれ、10トン 40トン 80トン などの防火用水が準備されているのはすごいと思った。

古い街並みでよく見かける「うだつ」(最初は類焼防止目的だったと聞く)をあまり見かけなかったのが不思議だったが、建築の時代によるのかも。

*「駒つなぎ」という金具が通りに面した柱に取り付けてある家もある。
高いところに取り付けてあるのは牛用、低いところのは馬用だという。動物の習性によるものか。
そして、通りによって取り付け(左 右)が決まっていた。
通りに繋がれた牛や馬を想像してみる。


会員の一人が「駒結び」を実演してくださった。
固く結べて引っ張っても解けないのに、解きたいときには簡単に解ける。


マンホール 中央は駒繋ぎを表し・周りは屋根瓦のデザイン


称念寺 本堂(重要文化財)は修理中だった。


立派な商家の表には「太い格子」が見られる。


紙半 豊田記念館のカイヅカイブキ(樹齢250年)景観重要樹木


蘓武橋のエノキ(樹齢420年)景観重要樹木 で解散

まだまだ見足りないところもある。
町の途中の豆腐屋さんで「お揚げ」を自販機で。
薬品会社が作ったという「おにみみコーラ」(朝のテレビで偶然見た)もお土産に買った。

コメント (3)
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