みどりの野原

野原の便り

3月30日 名張藤堂家 栄林寺 やなせ宿 名張川 宇流富志禰神社 宝蔵寺

2021年03月30日 | Weblog

名張藤堂家へ。


名張駅前 観阿弥像「観阿弥創座之地」
名張小波田で初めて猿楽坐を建てた。
息子の世阿弥と共に能を大成した。
又、名張は江戸川乱歩の生誕地でもあるそうだ。
ツバメが飛び交っていた。

名張藤堂家


玄関

名張藤堂家は藤堂高次により、名張へ国替えを命じられ名張の城跡の高台に居を構えた藤堂高吉(たかよし)に始まる。
家臣や伊予から従ってきた上人や職人らの住居を定め、城下町としての体制を整え名張の町の発展の基礎を築いた。

江戸時代から明治維新まで、11代にわたり名張で暮らした。

現在の屋敷は、宝永の名張大火で焼失後、再建された屋敷の一部分で、藤堂家に伝わる屋敷図で屋敷全体の構成を見ることができる。
複雑なつくりの建物で、接客・儀式用の機能を持つ部分や役所・勘定所など公的な部分。
釜屋・肴部屋など調理に関わる部分。私的な日常生活を送る場としての中奥などに分かれる。
畳数だけでも1083帖もあったという。
近くには小学校や幼稚園などがあるが、あたり一帯が旧藤堂家の敷地だったようだ。
 
明治初年に建物の大部分が取り壊されたが、中奥・祝いの間・茶室など、日常生活に使用された奥向きの1部と、正門(寿栄神社に移築)が残された。


中奥


茶室 清閑楼


トイレ 畳敷きに板の便器


風呂 浴槽はなかったようで、行水のようなものだったらしい。

展示品を見る。


朱(あか)具足 実戦用らしい。
こんな重いものを身に着けて戦えるのかと思ってしまう。


鉄砲の玉や火薬などを持ち歩く鞄

豊臣秀吉からの陣中見舞いのような「朱印状」や花見弁当箱などがあった。

中庭のサツキが満開。

見学者は私たち2人だけ。
影絵と語りの、手作り感あふれるビデオをゆっくりと見た。

藤堂高吉の幼い時から名張へ来る頃までの話。
1579年、織田信長の家来、丹羽長秀の三男として生まれる。名は仙丸
秀吉の望みによって、秀長の養子になり、秀吉の都合によって、子供のいない秀吉の家来の藤堂高虎の養子になり、藤堂高吉となる。
養父 高虎と共に関ケ原では東軍として、又、数々の戦に出て戦功をあげ、伊予に領地を与えられ、高吉も伊予に屋敷を構える。
ところが、高虎に子ができると、疎まれ・・
高虎の家督を継ぐどころか、高虎がなくなると、高虎の子、高次の家臣に・・
独立しようとするが、認められず・・
高次により、名張へと国替えを命じられる。

自分の意思が全く通用しない封建の世、波乱万丈の藤堂高吉の物語・・・見ていてもイライラ・・辛かった。


藤堂家を出て、しばらく歩いたところにある寿栄神社(ひさかじんじゃ)
鳥居から登ったところにある門が、移築された名張藤堂家の旧正門(通称太鼓門)

栄林寺


栄林寺山門は初瀬街道に面している。

本堂 300年ほどの歴史があるそうだ。

境内には薬師堂や観音堂 今はなくなった庚申堂の瓦なども置いてある。瓦定の記銘あり。


ウメの古木 樹皮だけのような姿。でも果実がたくさん付いていた。
すごい生命力 本堂と同じぐらいの樹齢か? 台風の時の洪水に会っているらしい。


ウメの古木の横にあるのは芭蕉の句碑

やなせ宿
旧細川家住宅

旧細川家住宅 江戸時代から明治の初年に薬商 細川家(大宇陀)の支店として建てられた。
虫籠窓や、袖うだつ・つし2階を備える町家 


木の節を生かした欄間が面白い。
今は観光案内所のようになっていて、食事もできると聞いていたが、来る時間が遅くて売り切れ・・

名張川

近くには1級河川 名張川 波型の壁は洪水対策か?

宇流富志禰神社(うるふしねじんじゃ)


坂を上って、宇流富志禰神社(うるふしねじんじゃ)
式内大社 創建は古い。


拝殿 奥に立派な本殿があった。

山林や田畑・石段などの奉納石碑が並んでいた。

宝蔵寺


宝蔵寺


境内にある「袈裟斬り地蔵」と書いてある地蔵堂をのぞいた。
左が斬られた地蔵さんなのか。

結局お昼はコンビニでサンドイッチを買う羽目に・・安上りではあるが・・

コメント
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