みどりの野原

野原の便り

2月18日橿原市曽我町を訪ねて~小綱町

2022年02月18日 | Weblog

今日の例会は集合場所も近く、散歩コースのようなところ。
とはいえ、深く知らないで歩いているので、いろいろ教えてもらえるのは楽しみだ。

①宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)(曽我町) 

 
祭神は宗我都比古大神と宗我都比宗我都比売大神
蘇我氏一族につながる神社
蘇我馬子が社殿を造営して始祖夫妻をお祀りした。また、石川宿禰・竹内宿禰を祀る と記すものもある。
延喜式神名帳「宗我都比古神社2座」に比定されている由緒ある神社だ。

以前は境内には木が茂って蒼然としていたが、台風でずいぶんさみしくなった。
明るくなった境内には花木が植えられ、それはそれで楽しみである。
今はロウバイが満開だ。


拝殿前の擬田 稲に見立てた松葉 お田植え祭はもう終わったのか?

案内会員のお1人から、千葉にも「蘇我」という地があり「蘇我ヒメ神社」があり、蘇我大臣の娘を蘇我氏の祖として祭神としている。・・など、千葉と大和蘇我のつながりを思わせるようなお話も聞いた。

別に、ネットで、小田原市にも曽我神社があり、祭神は宗我都比古神社から分霊し祀った。の記事もあった。

拝殿・本殿・稲荷神社など境内社あり。

地名「真菅」の由来となる万葉歌碑も建てられている。
「真菅よし曽我の川原になく千鳥 間なく我が背子 吾が恋ふらくは」作者不詳

②曽我川 
先の万葉歌にも出てきた曽我川が近くを流れる。

県内の川は、条里制が敷かれるまでは水の流れに任せて曲がりくねっていた。
条里制以後は南北の道路に合わせ、南から北へと流路を付け替えられていった。

上流で高取川が流入し、水かさが増し、この辺りは水漬きやすいそうだ。
私が知っている被害は、30年ほど前?台風と秋雨前線の影響で、曲川大橋から上流あたりで、西側へ水があふれた。

その後、洪水調整のため、曲川大橋下流の川の蛇行を直線化し、蛇行跡を曽我川緑地公園とし、川の水量が増えた場合、越流堤を超えて水が流れ込む 遊水地ができた。(2002年?)
普段は公園・運動場・体育館として使用。


左の切れ込みが「越流提」
2020年10月、大雨で曽我川が増水し、多量の水が初めて遊水池に流れ込んだ。(数日後に撮った池のような写真がある)
しばらくの間公園は使用不可となったが、遊水地が役に立った出来事だった。

少し上流の水中にある「堰」のことは知らなかった。よく歩いているのに気が付いていなかった。

③曽我遺跡(曽我町)
今、橿原バイパスのそばで、京奈和自動車道の工事が進められている。
以前、橿原バイパスの建設に伴う発掘調査で、大規模な玉造遺跡が見つかり、日本列島各地から集積された琥珀・翡翠・碧玉・水晶・・などが大量に出土。
ここで、管玉や勾玉・・など様々な製品に加工されていたらしい。
鉄の錐や砥石など加工道具も出土。
5世紀の玉作り工房としては日本列島では質・量ともに最大規模という。
曽我周辺は古代から人が住んでいたところなのだ。

このあたり、これからの道路工事でどのように変わるのか・・
いつも観察しているウマノスズクサ自生地も消えそうな・・ジャコウアゲハはどこへ? いつもドキドキしながら工事の行方を見ている。

④天高市神社(あめのたけちじんじゃ)(曽我町)
祭神は事代主・品陀別命(応神天皇)・息長帯姫(神功皇后)・比売神の4柱。
遅くとも貞観元年(859)以前に存在した神社。
式内大社に比定される格式高い神社
日本書紀によると「天照大神がお隠れになった時、全国の神々がこの地にお集まり相談された」という伝承地の1つ。
夏越の大祓などの行事もされるらしい。また来てみよう。

⑤多賀氏陣屋跡(曽我町)
今は曽我地区公民館と陣屋会館が建つこの場所は、江戸時代の初め、旗本多賀氏が、2000石を拝領して、陣屋を構えていたところ。

陣屋の周りは薮と掘を巡らしてあったらしい。
今から50年ぐらい前までは、この辺りは「陣屋の薮」とよばれる薮が残っていたらしい。
今は説明板があるだけで陣屋の面影はない。

⑥首落橋・オッタ屋 (曽我町)
横大路に出る。昔は道幅20mもあったらしい大道。
難波から飛鳥へ、賓客や文化を運び、江戸時代にはおかげ参りで栄えた伊勢街道として大勢の旅人が通った街道。


大きい太神宮灯籠が建っている。
かつての大道は今では車の行き違いも精いっぱいの狭い道路だ。

乙巳の変(645)で、蘇我入鹿は飛鳥板葺宮で中臣鎌足らに暗殺された。
それにまつわる蘇我入鹿の首伝説の1か所。
この辺りに昔あった「首落橋」(今はない)の近くの家に蘇我入鹿の首が落ちてきた。
その家を「オッタ屋」と言った。

⑦入鹿神社と大日堂 (小綱町)
昔、この辺りは蘇我一族の領地で、蘇我入鹿の母が身を寄せた家があって入鹿はそこで育てられたとも言われている。
文化財保存会の会長さんが説明してくださった。

*入鹿神社


入鹿神社は、今は廃寺となっている普賢寺の鎮守社であったと伝えられる。
祭神は蘇我入鹿と素戔嗚尊
全国で唯一「曽我入鹿公」をお祀りする神社
日本書記では蘇我氏は大逆臣。でも小綱町の人たちは「入鹿公」と敬愛する。

明治22年?橿原神宮の造営にあたり「神武天皇を祀る橿原神宮の近くに逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪い」と祭神を素戔嗚尊にし、社名も改めるように政府から言われたのを、地元住民は拒んだという。(拍手)
素戔嗚尊も祀っていたので許されたそうだ。

入鹿にまつわる伝説。
・入鹿は鶏鳴を合図に首を刎ねられたので昔から小綱町では鶏を飼わなかった。
・小綱町で生まれたものは入鹿を暗殺した中臣鎌足を祀る多武峰とは縁組をしない。また、多武峰へ参ると腹痛を起こすと参拝しなかった。
・鎌足の母の出生地の小原と小綱は縁組をしない。
・・など多くの伝説があるそうだ。

入鹿の首落ち伝説では
・飛鳥寺近くの「入鹿の首塚」
・明日香村「もうこの森」(入鹿の首に追われた鎌足がここまで逃げれば「もうこんだろう」といったとか・・)
・先に書いた「首落ち橋 オッタ屋」
・桜井市談山神社 絵巻が残る。
・さらに、三重県飯高町舟戸 首塚と呼ばれる五輪塔がある。・・・など。
入鹿神社に首が飛んできたという言い伝えはないそうだ。

極悪人と言われてきた蘇我氏。最近ではその功績を見直されつつある。
蘇我氏こそ改革者だったなどという人も。
「今までの濡れ衣 どうしてくれるの・・」と思っているかな?


入鹿神社拝殿 千鳥破風の棟に「龍の瓦」どういう意味があるの?


入鹿神社本殿 朱塗り 檜皮葺の立派な社
江戸時代の建物で、昭和61年に解体修理も行われた。


鳥居は珍しい西向き。 
蘇我氏の始祖の地、蘇我(曽我)に向いて立っているとか。

*正蓮寺大日堂

正蓮寺大日堂 入鹿神社と同じ境内に建つ。
廃寺普賢寺の本堂だったらしい。
創建年代は不明だが、再建年代(文明10年)が書かれた棟札が2枚ある。

明治の廃仏毀釈により普賢寺は廃絶。
大日堂は競売に出されたそうだ。
それを、地元住民がお金を出し合って金13円50銭で落札。

隣接する正蓮寺の名を借りて正蓮寺大日堂とし、地元自治会が管理している。
保護活動と、情報発信は小綱町文化財保護会が担当。
宗教行事はされない。
大日堂(室町時代)と、本尊 大日如来坐像(鎌倉時代)は共に重要文化財 
橿原市内で重要文化財の仏像はここと、国分寺の十一面観音立像の2体だけだという。
本尊大日如来坐像は一昨年金箔の剥落止めやほこりの除去などをおこなわれ、きれいなお姿になった。
去年できなかった修復記念式典が5月に行われるそうだ。

入鹿神社・正蓮寺 地元愛あふれる社寺だった。

⑧最後に 柿本人麻呂神社 (地黄町)


新庄町の柿本神社から分祀された。
柿本人麻呂を祀る。
本殿は棟札4枚(康永4年の墨書あり)と共に重文に指定されている。

八木駅へ向かう会員と分かれ、もう一人の方と西へ帰る。

曽我周辺、素晴らしいところだと改めて思った。
そして、又行ってみたいところもできた。
いろいろ調べている中で、わからなかった橋の名がわかったり、地蔵さんの行方がわかったり・・おまけもあった。
しっかり案内していただいてありがたかった。

コメント (2)
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