先日散歩の途中馬込に有る湯殿神社に寄ったら彼岸花が咲いていた、この花を見ると数少ない母親の記憶が蘇る、母は裁縫を教えて居て村に多くのお針子さんが居た、嫁入り修行と言う事で村の若い女性は大抵来ていた。昭和20年代の終わり頃だと思う、娯楽の少ない時代で村の青年団が祭りに合わせて村芝居をやる、川沿いの傾斜地を切り開いて家が有る、数軒づつ固まっているが隣の家団までは声も届かない位の村なのだが必ず字単位で神社が有り、しっかりした神楽殿があった、お針子さんの字で村芝居が有ると言うので母が自分を背負って見に行った、村祭りの時期だから多分10月の初めだろう、自転車は押して上がらなければならないほどの傾斜で舗装どころか削り出しただけの道路を幼い私を背負って真っ暗の道を提灯を下げて歩いて行ったが最初から背負われて居たのか途中からだったか、その頃だと姉も小学生だったと思うのだが居たかどうかも定かではない、ただ母の背中の体温と巻き上げた髪の匂いがなんとなく覚えている、トンネルを抜け川沿いのまがりくねった道路が少し平らになったら左に橋が有って此処を渡ると村社である、鳥居の前に白い幟が立ててあり、鳥居を過ぎると広場が有る、恐らくいま見れば相当狭いと思うが当時自分にはかなり広く感じた、正面が鎮守の八幡様だがその手前左側に神楽殿がある、3方向が開いた板敷きで1m位の高さが有る、此処は奉納の神楽をする場所で毎年春にその年数えで7歳になった女の子が白い着物に緋色の袴を付け、金の飾りの有る冠様な物を被ると両手に鈴を持って横笛と小太鼓に合わせて舞を舞う、これを各村の小字毎にやって居た、此処に村祭りの時は青年団の村芝居やドサ廻りの芝居が掛かったりしていた、此の時の出し物がその頃流行っていた歌謡曲の「じゃがたらお春」と言う物だった、後で調べたら長崎物語と言う物らしい、子供の私では内容は全く覚えて居ないのだが歌詞の「赤い花なら曼珠沙華」と言う言葉だった、その前から村には畦道や川の土手に彼岸花は咲いて居たが別名が曼珠沙華と言うのは此の時知った、綺麗な赤い花で雄しべの形が王冠の飾り見たいで好きな花で母も好きだった、しかしその頃大人は「彼岸花には毒が有るから触るな」と言っていた、葉の無い花で竹枝でピュッと薙ぐと綺麗に落ちてその切り口から白い液が出る、此れが毒だと教えられていたのだが数年前何かの本で彼岸花に毒が有ると言うのは嘘で根は非常食になると言う記事を見た、確かに彼岸花の根は芋様だが誰も食べなかったと言うのは食べられても旨くは無かったんじゃないかと思う、時期的に墓参りをすると墓の間に咲いて居るので縁起が悪いと言う様な所ではなかったのではないか、彼岸花は歌の通り赤い花だと思っていたが数年前に房総半島の中央あたり、南総里見八犬伝の八房の墓と言う碑の有る近くにびっしりと彼岸花が咲いていて、その中に真白な彼岸花が有った、その後鎌倉に行ったら今度は黄色の彼岸花を見た、此れはどうやら同じような花でも種が違うらしい、しかし同じ様だに見えたが改めてみるとキスゲかなとも思う、自分としては気に入った花だ。
暑さ寒さも彼岸までと言う通り涼しくなったが本当に今年は永い夏だったな、彼岸に義理を立てた様な秋の到来だ、
暑さ寒さも彼岸までと言う通り涼しくなったが本当に今年は永い夏だったな、彼岸に義理を立てた様な秋の到来だ、