CubとSRと

ただの日記

「取捨選択」(「分」の続き)

2019年03月25日 | 重箱の隅
 「分」だって、「分際」という言葉とその一般的な遣われ方が醸し出す雰囲気に「分」の本来の意味が覆い隠されてしまっているのじゃないか。
 これが「分際」でなく「分担」だったら?
 「担」は「担(にな)う」、「担(かつ)ぐ」、だ。
 「男の分、女の分」が「男の分担と女の分担」なら、精神的にも身体的にも「長所、短所などの基準で良し悪しを判ずる」のではなく、逆にそれぞれの「相違点を十分に把握して特徴を活かす」という積極性が見えてくるのではないか。
 「分ける」というのは、決して一方を切り捨てるということではない。
 目を三角にして相手を論詰するよりも、取り敢えずは長所短所からでもいいから、先ずはもっと冷静に見れば、活かせる部分も見つかるのではないか。
 まあ、
 「四輪と二輪、どちらが『優』れている?」
 なんて見方ではなく、
 「四輪と二輪、それぞれの長短は?」
 、と取り敢えずはそれぞれの存在を肯定して、ということだ。
 ただ、「それぞれの良いところだけ、手に入れよう」とか「良いところは習って、悪いところは倣わない」というのは正しい在り方だけど、自身がじりじりするくらい辛抱しなければならない。焦ると失敗する。
 その気はなくとも、表面だけで早合点して、打つ手を間違える。群盲、象を撫づ。
 見詰める努力をし始めたばかりでは、良し悪しの判断自体、精確な物差し(考え方、理解能力)がまだできてないことが往々にしてあるので。
 明治時代の「琉球処分」などでも、字面だけ見て「日本に処分された=切り捨てられた」などと解釈するから、昭和天皇が沖縄を見捨てたので、サンフランシスコ講和条約の日は「屈辱の日」だ、などと大騒ぎをすることになる。
 (島津藩の支配下から、鹿児島と同格の「県」になることは「切り捨てる」ということになるのか?)
 (発言力のない状態の天皇が「日本の主権を残したままの長期租借(25年ないし50年、あるいはそれ以上)を要請することで、米国に永久支配をさせない、という仕掛けを作った」のは、沖縄を見捨てたということになるのか?)


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