雨は上がって路面も乾いたけれど、今日の日記を書いてない。
で、何とか書いたことにしようと思うんだけど、降り込められていたわけだから、何も書くことがない。
それで炬燵の上のカレンダーを見たら、明後日はもう春分の日ではないか。
春季皇霊祭でもある。
初めは「春の彼岸」。
明治以降、「春季皇霊祭」として祭日(皇霊「祭」だから)にされた。
敗戦後はGHQによって祭日を廃止された。何とか形を変えてでも残したい。
ということで、普通に暦から「春分の日」。
これ、何回日記に書いただろう。色々調べてみるまで、そして考えてみるまで何も分からないで、ただ「そういうことになってる」で終わっていた。
とにかく日本から、日本文化の根幹である(と、思われる)「皇国」という考え方を消し去りたい、選民思想を抹消したいということでGHQは何でもやった。
・・・なんてことを書くと、すぐに「眉に唾つけて聞け」、なんてことを言われるんだろうけど、イラクだってシリアだって、もっと前の半島国にだって、大陸にだって、アメリカがどんなやり方をしてきたか、ちょっと調べたらすぐ分かること。あの国は肝腎かなめの部分を全く理解できず、ただひたすら、良かれと思って力攻めをする。
もう「小さな親切、大きなお世話」、どころじゃないよ。ただただ「大きなお世話」。「要らぬお節介」。
日本じゃなくて彼の国の方が「12歳の子供」程度の品性でしかないのに、そのレベルでの幼稚な「正義」を押し付けて来た。
その押し付けられた正義を、未だに屁理屈を着けて後生大事に守ってるんだよね。
「いきさつはどうであれ、正しいこと書いてあるんだから、それでいいじゃないか。9条守れ!」って。
・・・・ん?また脱線した?
ぼた餅のことを書くんだった。
子供の頃、うちの田舎には「ぼた餅」なんてなかった。見たこともなかった。 何か美味しそうな気もするけど、きっと不細工な餅なんだろう、と思っていた。
田舎では「ぼた」というのはボロボロの着物を指す言葉だった。
「ボタを着て」というのは「ボロボロの物を着て」ということだから、身なりを気にすることもできない貧乏人を指す。
「ぼた餅?う~ん、何だかなあ」。
後に、ボタというのは炭鉱から出る商品にならない質の悪い石炭のことだ、と本で読んだけれど、これもまた「ぼた餅」とは違うみたい。
で、やっと知った正解が「ボタ、ではなく牡丹餅」。
牡丹の花は丸っこくてでかい。色は全く違うけど。
だから正確にはボタン餅と言わなきゃならないんだけど、「ん」の字を発音することを嫌うのと、言い難いから「ぼた餅」。
対する「お萩」は「お」萩餅。
秋の彼岸の頃は、秋の花である萩の花が咲き乱れている様が小豆をぶちまけているように見えるから、らしい。
「ぼた餅」は一輪の牡丹の花の形から。
「おはぎ」は小さな花が密集して、小豆粒が流れ落ちているような様から。
・・・・ということなのだけど。
なんか変だ。一方は一輪。もう一方は初めから小豆粒(一輪)ではなく全体像。
一貫してない。・・・という解釈をするのは西洋式。
和菓子の名前の付け方を見りゃ分かる。
何より茶菓子は、「風雅」が第一だ。そして「縁起」。縁起は良いことにつながるものをあげるわけだから、こじつけでも何でもいい。
逆に茶菓子に不要なのは皮肉とか諷刺。
同じものでも名前を変えりゃ、それで季節が変わる。
お萩、ぼた餅。名づけの共通点はただ「花」であることだけ。
ふふん。ネーミング、なかなかお洒落だ。
明日は晴れだから、おはぎ、じゃなかった、ぼた餅、買いに行こう。
供える仏壇はないけど。
で、何とか書いたことにしようと思うんだけど、降り込められていたわけだから、何も書くことがない。
それで炬燵の上のカレンダーを見たら、明後日はもう春分の日ではないか。
春季皇霊祭でもある。
初めは「春の彼岸」。
明治以降、「春季皇霊祭」として祭日(皇霊「祭」だから)にされた。
敗戦後はGHQによって祭日を廃止された。何とか形を変えてでも残したい。
ということで、普通に暦から「春分の日」。
これ、何回日記に書いただろう。色々調べてみるまで、そして考えてみるまで何も分からないで、ただ「そういうことになってる」で終わっていた。
とにかく日本から、日本文化の根幹である(と、思われる)「皇国」という考え方を消し去りたい、選民思想を抹消したいということでGHQは何でもやった。
・・・なんてことを書くと、すぐに「眉に唾つけて聞け」、なんてことを言われるんだろうけど、イラクだってシリアだって、もっと前の半島国にだって、大陸にだって、アメリカがどんなやり方をしてきたか、ちょっと調べたらすぐ分かること。あの国は肝腎かなめの部分を全く理解できず、ただひたすら、良かれと思って力攻めをする。
もう「小さな親切、大きなお世話」、どころじゃないよ。ただただ「大きなお世話」。「要らぬお節介」。
日本じゃなくて彼の国の方が「12歳の子供」程度の品性でしかないのに、そのレベルでの幼稚な「正義」を押し付けて来た。
その押し付けられた正義を、未だに屁理屈を着けて後生大事に守ってるんだよね。
「いきさつはどうであれ、正しいこと書いてあるんだから、それでいいじゃないか。9条守れ!」って。
・・・・ん?また脱線した?
ぼた餅のことを書くんだった。
子供の頃、うちの田舎には「ぼた餅」なんてなかった。見たこともなかった。 何か美味しそうな気もするけど、きっと不細工な餅なんだろう、と思っていた。
田舎では「ぼた」というのはボロボロの着物を指す言葉だった。
「ボタを着て」というのは「ボロボロの物を着て」ということだから、身なりを気にすることもできない貧乏人を指す。
「ぼた餅?う~ん、何だかなあ」。
後に、ボタというのは炭鉱から出る商品にならない質の悪い石炭のことだ、と本で読んだけれど、これもまた「ぼた餅」とは違うみたい。
で、やっと知った正解が「ボタ、ではなく牡丹餅」。
牡丹の花は丸っこくてでかい。色は全く違うけど。
だから正確にはボタン餅と言わなきゃならないんだけど、「ん」の字を発音することを嫌うのと、言い難いから「ぼた餅」。
対する「お萩」は「お」萩餅。
秋の彼岸の頃は、秋の花である萩の花が咲き乱れている様が小豆をぶちまけているように見えるから、らしい。
「ぼた餅」は一輪の牡丹の花の形から。
「おはぎ」は小さな花が密集して、小豆粒が流れ落ちているような様から。
・・・・ということなのだけど。
なんか変だ。一方は一輪。もう一方は初めから小豆粒(一輪)ではなく全体像。
一貫してない。・・・という解釈をするのは西洋式。
和菓子の名前の付け方を見りゃ分かる。
何より茶菓子は、「風雅」が第一だ。そして「縁起」。縁起は良いことにつながるものをあげるわけだから、こじつけでも何でもいい。
逆に茶菓子に不要なのは皮肉とか諷刺。
同じものでも名前を変えりゃ、それで季節が変わる。
お萩、ぼた餅。名づけの共通点はただ「花」であることだけ。
ふふん。ネーミング、なかなかお洒落だ。
明日は晴れだから、おはぎ、じゃなかった、ぼた餅、買いに行こう。
供える仏壇はないけど。