6年近くになりますが、以前に書いた日記です。
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「先祖祀りもしない者が」
2015.12/04 (Fri)
父の一周忌にお経をあげてもらうため、先月下旬から田舎に帰っていた。
本当なら十一月半ばなのだが、遅くなった。
一年。あっという間だ。父の法事より、自分の病気入院などを優先した。親不孝者である。
自分の入院加療は二度に分かれたとはいえ、病院からすれば内視鏡を使った簡単なもので、現に今は以前と変わりなくこうやってお気楽な日記を書いている。が、父は戻っては来ない。「私に今、何かできるのか」、なんて言うまでもなく、何もできはしない。
「親不孝者」と書いたけど、じゃあ孝行していたら親はいつまでも生きていられるかというと、そんなわけはない。
残された者にできることって一体何だろう。立派な法要を行うことか。
繰り返すけれど、死んだ者は生き返っては来ない。
「残った者」、とか「残された者」という言い方に、なにか引っ掛かる。
他界したものは「成仏」したのだ。「仏に成った」のだ。
だったら、斯界(此岸)に居る我々はまだ仏に成ってないのだ。やらねばならないことがあるのだ。
つまりは、「まだ宿題が残っているのだ、だからこの世は修行の場なのだ。酷く言えば刑務所なのだ」ということか?
いや、我々は修行僧ではない。ましてや囚人ではない。
ということは、我々は「残された者」「残った者」ではなく、この世を「継ぐ者」「継承者」であり、次代に「繋ぐ者」である筈だ。
そうするとやっぱりできることは、それぞれの事を、それぞれの意志で取り組み続けるということ、しかなかろう。
で、それは去った者のために、ではなく当人のために、ということになる。そしてそれは周囲のために、ということにもなる。
更にそれはめぐり巡って世のため人のため、となっていく。
そんなことを考えたら、以前、妙に違和感を持ったことが、同じ理屈からだったことに気付いた。
大阪府知事だったか、大阪市長だったか、祖母に叱られたという話だ。ニュースで何度か目にした。
「靖国神社に参拝する、と言ったら『おじいさんの墓参りもしない者がええカッコするな!』と叱られた」
、と。
「先祖祀りもしない者が、一族に戦死者もいないのに何故靖国神社に参るのか。自分の家の墓参りが先だろう?」
何となく、つい
「そうだそうだ。先に墓参りしろ。ええカッコするなよ」
と思ってしまいそうになる。
でも、
「先に先祖祀り、しろよ」?
靖国神社の英霊達は彼が参拝したらそんな風に思うのだろうか。
いや、既に神となった英霊達にそんな感情はあるまい。そう言うのは生きている者同士が言い合うことだ。神の気持ちを忖度したって意味はない。
それよりも我々は「英霊達は自身の身近な人々を守るために命を捧げた」ということをもっと直視すべきだろう。
「身近な人を守るために」
これは家族を養うために額に汗して働くことと同じ道理だ。
我が身を捨てて家族を守る、身近な人を守るということは、継承者に後を託すということだから、国を守るということになる。
だったら、我々は血のつながりはなくとも、国民として彼らに守られたのだ。そして彼らに後を託された「継承者」なのだ。
そう考えたら参拝するのは当然のことではないか。参拝ができなければ遥拝すればいいではないか。
「墓参りしてないから、縁もゆかりもない靖国神社に参拝するな」、はあまりにも身勝手な暴論だ。
南方に出征していた父は勝ち戦の中で敗戦を知り、帰国した。そして地道に生き、子を育て、昨秋他界した。
先日亡くなった水木しげる氏。ラバウルで死線を越え、片腕を失って帰国、日本人の心に大きな影響を残した氏より一つ年上だった。
有名無名の違いはあるけれど、どちらもやっぱり働くことで家族を守り、戦争賛美などはせず、結果としてその先にある「国」を守ることをしてきたのだ。戦後も、そうやって国を守り続けてきたのだ。
勿論、「国があって家族がある」のではない。けれど「家族があって国がある」のでもない。
我々民草が熱源となって国は成り立つ。
私は私の意志で私にできることに取り組むこと。そうやって熱を発すること。
せめて受け売りの「右から左へ受け流す」ようなことだけはせぬよう努めることにしよう。
父の一周忌にお経をあげてもらうため、先月下旬から田舎に帰っていた。
本当なら十一月半ばなのだが、遅くなった。
一年。あっという間だ。父の法事より、自分の病気入院などを優先した。親不孝者である。
自分の入院加療は二度に分かれたとはいえ、病院からすれば内視鏡を使った簡単なもので、現に今は以前と変わりなくこうやってお気楽な日記を書いている。が、父は戻っては来ない。「私に今、何かできるのか」、なんて言うまでもなく、何もできはしない。
「親不孝者」と書いたけど、じゃあ孝行していたら親はいつまでも生きていられるかというと、そんなわけはない。
残された者にできることって一体何だろう。立派な法要を行うことか。
繰り返すけれど、死んだ者は生き返っては来ない。
「残った者」、とか「残された者」という言い方に、なにか引っ掛かる。
他界したものは「成仏」したのだ。「仏に成った」のだ。
だったら、斯界(此岸)に居る我々はまだ仏に成ってないのだ。やらねばならないことがあるのだ。
つまりは、「まだ宿題が残っているのだ、だからこの世は修行の場なのだ。酷く言えば刑務所なのだ」ということか?
いや、我々は修行僧ではない。ましてや囚人ではない。
ということは、我々は「残された者」「残った者」ではなく、この世を「継ぐ者」「継承者」であり、次代に「繋ぐ者」である筈だ。
そうするとやっぱりできることは、それぞれの事を、それぞれの意志で取り組み続けるということ、しかなかろう。
で、それは去った者のために、ではなく当人のために、ということになる。そしてそれは周囲のために、ということにもなる。
更にそれはめぐり巡って世のため人のため、となっていく。
そんなことを考えたら、以前、妙に違和感を持ったことが、同じ理屈からだったことに気付いた。
大阪府知事だったか、大阪市長だったか、祖母に叱られたという話だ。ニュースで何度か目にした。
「靖国神社に参拝する、と言ったら『おじいさんの墓参りもしない者がええカッコするな!』と叱られた」
、と。
「先祖祀りもしない者が、一族に戦死者もいないのに何故靖国神社に参るのか。自分の家の墓参りが先だろう?」
何となく、つい
「そうだそうだ。先に墓参りしろ。ええカッコするなよ」
と思ってしまいそうになる。
でも、
「先に先祖祀り、しろよ」?
靖国神社の英霊達は彼が参拝したらそんな風に思うのだろうか。
いや、既に神となった英霊達にそんな感情はあるまい。そう言うのは生きている者同士が言い合うことだ。神の気持ちを忖度したって意味はない。
それよりも我々は「英霊達は自身の身近な人々を守るために命を捧げた」ということをもっと直視すべきだろう。
「身近な人を守るために」
これは家族を養うために額に汗して働くことと同じ道理だ。
我が身を捨てて家族を守る、身近な人を守るということは、継承者に後を託すということだから、国を守るということになる。
だったら、我々は血のつながりはなくとも、国民として彼らに守られたのだ。そして彼らに後を託された「継承者」なのだ。
そう考えたら参拝するのは当然のことではないか。参拝ができなければ遥拝すればいいではないか。
「墓参りしてないから、縁もゆかりもない靖国神社に参拝するな」、はあまりにも身勝手な暴論だ。
南方に出征していた父は勝ち戦の中で敗戦を知り、帰国した。そして地道に生き、子を育て、昨秋他界した。
先日亡くなった水木しげる氏。ラバウルで死線を越え、片腕を失って帰国、日本人の心に大きな影響を残した氏より一つ年上だった。
有名無名の違いはあるけれど、どちらもやっぱり働くことで家族を守り、戦争賛美などはせず、結果としてその先にある「国」を守ることをしてきたのだ。戦後も、そうやって国を守り続けてきたのだ。
勿論、「国があって家族がある」のではない。けれど「家族があって国がある」のでもない。
我々民草が熱源となって国は成り立つ。
私は私の意志で私にできることに取り組むこと。そうやって熱を発すること。
せめて受け売りの「右から左へ受け流す」ようなことだけはせぬよう努めることにしよう。