転載をもう一つ。
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朝鮮というのは「儒教の国」、でしたね。「儒学が盛ん」、ということではなく。
儒学は、両班(と言っても厳密には文班だけ、でしょうけど)は学び、また研究したんでしょうが、残り九割の庶民はそんなことをすることは許されなかっただろうし、する気も、その能力もなかった。無学文盲なわけですから。
でも、儒教の「礼法」は朝鮮の風土、国情に合わせて変容させられながらも、文化として伝えられ続けてきた。だから「朝鮮は儒教の国」、です。
つまり「何だか分からないけど昔からそうなってるんだよ」で、ずっと伝えてきた。
ちょっと考えれば分かることでも考えることをせず、「それが当然」、で、でも伝えるだけは伝えてきた。
皮肉っぽく言えば「旧来の陋習」というように批判的に見る意識もなかった。ただただ、とにかく伝え続けて来た。何しろえらい「孔子さま」の教えですからね。
そんなだから一般的に言う「形骸」となってしまっていただろうことは、想像に難くない。
脱線しますけど、この捉え方と「孔子朝鮮人説」は同根、でしょうね。理解能力の範囲からすれば。
儒教では、目上の人の前で一緒に食事を摂ることは、基本的に「ない(できない)」のだけれど、盃を賜ることはある。
しかし、その時、目上の人と同等に飲むところを見せるのは失礼だ、という事で、飲む口元を隠すのが礼儀だとされた。
日本だって、明治になっても主人と使用人は一緒に食事、なんてなかったし、「盃を賜る」ことも、まず、なかった。たとえあってもその場ではなく、使用人へは別の場で与えられた。
だからここまでは、日本も朝鮮も同じです。しかし、ここからが違う。
日本では「大口を開けて物を食べるのは卑しいこと」とされていましたが、目上の人がその場に居る居ないにかかわらず、「口元を隠して食べろ」なんてことは言われなかった。
日本の方が野蛮なんでしょうか?
そんなことはない。それどころか日朝間ではその飲食時の心の持ち様に天と地ほどの開きがあります。
日本で「大口開けて食べるのは卑しい、下品なことだ、失礼だ」とされるのは、目上の人に対してではありません。目上の人の有無は関係ない。
あれは「食物に対して失礼だ」、ということでした。
他の命をいただいて自分の命とする。だから、「いただきます」、と言う。仏教も神道もそこは同じです。
「命をいただくのに、だから『いただきます』と言うのに、そんな下品な、卑しい食べ方は失礼だ」、と。
けれど朝鮮の「口元を隠して飲む」というのは、目上の人に対して失礼だ、というだけなんですから。
本当に失礼だと思うんなら、有り難く受けても口をつける振りだけするか、いただいても別の間に下がって飲むかするものです。
しかし、朝鮮の「儒教」では、礼法として口元を隠して飲む形を作り上げた。
略式の礼法なんでしょうが、それで足れりとする考え方からは、「仁」の教えは全く見えてきません。
「礼楽(礼法と奏楽)」という、「形の学び」の中から、その品位、気位、境地、更には豊かな感情等といった、「形のない、見ることのできないもの」を知り、己がものにするのが儒教の筈です。
しかし朝鮮では、その形を略して(おろそかにして)学び、「そういうもの」、としてただの慣習にしてきた、ということになりましょうか。
その朝鮮式礼法を民団などの宴会に招かれた議員が学び、参会者の歓心を買うがためにやって見せた。
これは小泉進次郎議員が行く先々で、開口一番、その土地の方言で話し掛ける、そうやって土地の人の心をわしづかみにすることと似ています。
実際、そっくりでしょう?
でも、これ、根本からして、全く違いますよね?
進次郎議員は秋田に行けば秋田の、鹿児島に行けば鹿児島の方言で話し掛ける。決して秋田で鹿児島弁を喋ったり、鹿児島で秋田弁を、という事ではない。
当然「その場に合わせ、文化に合わせて使う」ことで衆人の心をつかむこと、それが目的です。
つまり、「民団などの宴会に招かれた議員が学び、参会者の歓心を買うがためにやって見せ」ること自体は何も問題ではない。却って代議士なら褒められるべきことです。
何故って衆人の代表として発言するわけですから人心を収攬する術を心得ている方が良いに決まっている。あまり好きな言葉ではないのですが、「人たらし」のテクニックがある、というのは絶対に有利なんですから。
ここまでは、だから、良い。
けれど、民団の会合ではなく、「国会で朝鮮式の水の飲み方をする」、というのは一体何を意図してのことか。目上の人ばかりだから?そんなことはない。
第一、代議士、「士」、として演台を前にしてるんです。日本の国会、日本の代議士として日本の在り方で堂々と飲めばよい。
「衆人の前で失礼だ」、と思うんなら飲まなければ良い。盃を賜ったわけではない、飲むのまないは自由でしょう。
ということは「一体、何を意図してのことか」、なんて愚問で、実は「何も考えてない。ごく自然にやってしまった飲み方だった」と断じてもよいのではないでしょうか。
●「朝鮮ではそうやって飲むのだ、と教えられ、やって見せたら褒められた。それで気を良くしてやっていたら、クセになった」
●「そういう家庭環境の中で、或いはそういう社会環境の中で生まれ育った」
繰り返しますが、良いんですよ、別に。何の問題もない。
けれど、国会でそれをやったとしたら、それは既に代議士として不適格だ、と告白しているようなものです。
「場を弁えよ」、なんかじゃありません。もっと重大なことです。
国政について論議する場で、無意識にそういうことをする。無意識であるからこそ「一事が万事」、何気ない挙動に本心は表れる。
真剣に国政について論議するべく選出された「選良」が、衆人の歓心を買うがためにやったことを、何の気もなく国政の場でも、やってしまう。こんなこと一つ気配りができない、つまり、詰めて考えられないで、一体どれだけの論議ができるのか、ということです。
汚職、女性問題などで醜聞を流しているけれども、優れた意見を述べる議員。
何も問題を詰めて考えられない議員。どちらが国にとって有用か、です。
2013.02/17 (Sun)