「鏡と硝子戸」
2011.01/26 (Wed)
昔。何十年も前のことですが、居合いを習いに行っていたことがあります。
一人で稽古をする時、自分の形を映せるようにと、鏡のようなものが置いてありました。
「のようなもの」と書いたのは、それが鏡ではない、スクリーンのようなものだったからです。当たって割ったりすると、身体も懐も大変だから、ということでしたが、まあ、本当のところは「鏡は高い」から。
やっぱり、それなりのもので、何となくぼんやりとした映り具合。
だから、師範をはじめ、会員も満足してはいなかった。
それから数年後に、剣術を習うことにしたため、その旨を伝え、その会はしばらく休ませてもらうことに。一度、習い覚えた剣術を見てもらいに行って、感想を聞きたいと思っているうちに、会は、なくなってしまいました。
ここまでは、前置きです。
剣術を習うことを発念、許されて喜び勇んで行ってみると、そこには鏡はあるんですが、肩幅ぎりぎりが映るくらいのものでとても全身を映して稽古の役に立てられるようなものではない。
素振りの形を確認するには、せめてもう少し大きな鏡がほしい。と言って、そんなこと、いきなり言えるわけもありません。
習い始めて数年が経った頃、世間話の中で、師範代に、大きな鏡があるといいでしょうね、と言いました。
すると師範代は、「鏡は要らんよ。ガラス戸に映しゃいいんだ」と言われます。
稽古場には戸板ほどで、下側三分の一ほどが板をはめ込んである、昔風の引き違いの硝子戸がありました。「あの」鏡を掛けてある柱の、隣りです。
夜になれば、蛍光灯の明かりの下、数名がそれに姿を映して素振りの稽古が出来ました。けれど、昼間は全く使えない。何とか映っても地上に出来る影法師並みの、真っ黒くろすけ。あのぼんやりとしたスクリーンどころの騒ぎではない。
「でも、ガラス戸じゃ、細かい所が映らないでしょう」
と、重ねて言うと、
「全体が映りゃ良いんだ。見え過ぎても意味がない」
言われることの意味が分かりませんでした。
「見え過ぎても意味がない??」
敢えてそれ以上聞かなくて、正解だったと思います。そこで、もっと詳しく説明を、と望み、答えてもらったとしても、分かることはなかったでしょう。
万が一、「分かった!」としても、「全体が映ればいい」、でぴんと来ず、「見え過ぎても意味がない」と説明されても分からなかったレベルの者が、それ以上説明を聞いても、分からない。
分かったとしても、クイズでノーヒントなら満点、あとはヒントを出す度に得点が減っていくパターンと同じ。理解度のレベルが低くなっていくだけです。
そこまでハードルを下げられて、分かったって何の意味もない。ドリル問題じゃないんだから。テスト問題は一問で百点満点。それが「分かる」の世界。
・・・・・なんて、それは後でわかるようになったこと。
その時は、こんな話も聞きました。
「昔は建物がなくて、庭先でやってたから、影法師を見て稽古をするのが普通だった」。鏡どころの話じゃない。いきなり、影法師、です。
まあ、そりゃそうですよ。何百年も前から鏡なんかあるわけがない。みんなそうして稽古をして来ている。
その時、敢えて聞かなかったのは、鈍感な私でも何かしら感じるところがあったから、なんでしょう。
何だか今になってみると、その頃から、物の見方が変わってきたように思います。
大げさに言えば、階段を一つ上がったのかもしれない。
何も見えない、イメージのままで自分の実際(現実)が見えないと、稽古(何かに取り組む)では、不安な上に目標の確認も出来ません。だから、何とか、策を弄してでも、客観視しようとする。
剣術等の武術、或いはダンス等は、動作の形を確認(客観視)するために鏡をつかうのが有効です。
けれど、見えないもの(心構えや、心境・境地)はどうでしょう。どうやって自分の頭の中を客観視したらいいのでしょう。そんなことは無理?元々見えないんだから、鏡に相当するものはないし。(?)
でも、理屈は同じです。
それで、段々に見えて来たこと。
「何故、鏡でなくて硝子戸なのか」「何故影法師で十分なのか」
客観視するためなら、より鮮明に映る物の方が良かろうに。伝えるだけなら携帯があるのに、何故、手紙を書くんだ?
今なら、一言で言えます。
答えは「木を見て森を見ず」になってしまうから、です。
鏡に映す目的は、「素振りの形を点検すること」、でした。
初心者の形と、その本人が脳裏に描いている形(イメージ)とは、重ならないのが普通です。だから、客観視するために「映す」のです。
つまり、目的は「形の点検」であって、「より鮮明に映すこと」ではない。目配りとか、手の内とか、足先の向き、などの細部を見ることではなく「概容を掴むこと」、なのです。「全体を把握する」ためには、「見え過ぎる」ことは、邪魔にしかならない。
現実問題、そのレベル(初心者辺り)の者が客観視できる程度(認識力)など、たかが知れているのに、「何の努力もしないで」細部にわたって客観視できる手段が、「鏡」なわけです。
だから、「見え過ぎる」ことは、却って概容を掴む目的の邪魔をすることになる。
その癖、努力せずに見えてしまう(客観視できる)ことは、「手の内」や、「目付け」等の微妙な部分については、映すことが出来ず、そうなるといつまでたっても客観視する能力を稽古者に身につけさせないようにしてしまう。
また頭脳活動と比べてみます。
見えない頭脳活動は、一体、どうやって点検したらいいのか。鏡でなく、影法師にあたるものはないか。
頭脳活動は、五器官で入手し、五感覚を通った情報を組み合わせることでした。
大雑把に言えば、その際の組み合わせ方が、「考え方」です。そして「考え」のもとになるのは、情報を置き換えた言葉。「言葉」を用いて考える。
「何を当たり前のことを」と言われそうですが、この、「言葉を使う」ということなら、言葉を曖昧には使えません。ちゃんと意味をおさえねばならない。
そして、それは辞書をほとんど使わないでやっているのですから、普段から何となく遣っているという部分を減らすようにしていなければならない。
コピペをつなぎ合わせて、「私の意見です」なんていうのは、ピッカピカに磨き上げた鏡の数倍も、性質(たち)が悪い、ということになる。
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「話してみろよ。聞いてやるから」。
本音はこうでも、口では「ご教授お願いします。拝聴させていただきます」 と言う。
これが世の中の形(建前)だった。世の中は建前で成立し、建前で動かそうとするのが「良識」だった。
「本音で生きようとすると他人様に迷惑をかける」。これが「常識」。
視聴率を求めるテレビの討論番組や、ニュースショーが増えたことで、この建前(ご教授~)の影は薄くなってゆく。
建前を取り払って視聴率、発行部数を稼ごうとするマスメディア、刺激を求めて本音を隠そうとしなくなった人々。
「分かる目」「正義の見方」はいつ作るのだろうか。