「初めに光あり」、じゃないけれど、何かを考えるにあたっては「初めが肝腎」だ。
いや、「初め」じゃなくて、「始まり」と見る方がより現実的かもしれない。
「始まり」は自然発生的なもので、「初め」はそこに「意(おもい)」が加わって、「それ」を劇的に展開、発展させる。
数年前、突然腰痛が起こったのではなく、数十年前にその原因となる転落事故(大袈裟だけど)があった。
ところが、その事故の結果である腰痛の症状には、事故とは直接には関係のないもの(左ひざの痛み)まで含まれていた。それが何か問われたけれども遂に思い出せなかった。整体師には「それが古傷となっている」と言われたのだが・・・。
順を追って思い出してみると、腰痛←腰痛←両膝の痛み←転落事故←足首の捻挫←?、となる。
60代も後半の半ばを過ぎて、まさかそんな、と思いつつも「始まり」はとんでもないところにあった、とやっと気が付いた。
先日来の腰の痛みは、4年ほど前に始まって2年余り続いた。
4年ほど前にこの腰痛が出る前。更に3年ほど遡った辺りに、膝の痛みが出て約半年それが続いた。
さらに二十年ほど遡った辺りで、転落事故(本人は腰、と思っていたが「腰ではなく尻だ」と叱られる)。
始まりはここ(転落事故)からだ、と思っていたのだが、施術後、その場で全く痛みがなくなり、キツネにつままれたような、という形容通りの回復。
これこそ神業、と本当に思ったくらいだったのだが、一週間ほど経って、又同じところが痛み始めた。
「また痛くなりました」
と再度の施術をお願いしに行ったら、
「そんな筈はない。ちゃんと治っている」
と、又叱られる。でも、同じところが痛い。
「これは前のとは違う。別なところだ」
と言いながら、腰のあたりを指で押して
「ここは痛いか」。
「いえ」「こっちは」「痛くないです」
「前に痛めたところはここだ。何ともないだろう」
「はい」。
低い椅子に座らされて、左膝の裏を「ここが痛いだろう」と指で押される。
思わず「うっ」と声が出る。ひどく痛い。
「こっちは痛くないだろう」と、押された右膝の裏は全く痛くない。
「腰じゃない。膝の古傷をかばって腰に負担が掛かっただけだ。感覚が鈍い。自分の身体はもっと気を付けて見なきゃいかん」
と、また叱られる。
が、この説明のつかない左ひざの痛みはどこから始まったのか。
それが最近になってやっと気づいた。
驚いたことにさらに十年ほど昔、数日間続いた足首の捻挫が大方の左膝の痛みの遠因になっているらしい。
「腰は身体の要(かなめ)だから『月(にくづき)』に『要』と書く」
ということを知ってはいても、「故に『腰』は大事だ」と結論を聞いたらそれで納得してしまう。全く分かってない。
「要」だから「身体の中心」、ということで、そこに全ての情報が集まり、それから手足の端まで指示が伝えられる。
だったら、手足の先の、或いは五感全ての情報を、より精確に収集しようとすることがまずは大事ということになる。芸事で言う「指先にまで神経が行き届く」とか、「指先にまで」「背中にも」目があるんじゃないかと言われるほどの神経遣いが普通にできるようにすること。それは指先などの末端まで、雑に用いないようにすることから始まるんじゃないだろうか。
卑近な言葉で言えば「全集中の呼吸」?