なまじ漢文が読めるから、漢文の真意が分からない。知らず「知ったかぶり」をやってしまう。
「知ったかぶり」は当人は気付いてやってるし、聞く方も何となく怪しいと気付いたりするけれど、本当に知ってるつもりで自信満々にやってると、当人も聞いてる方も全く間違いに気づかない。
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和三年(2021)11月9日(火曜日)
通巻第7114号
樋泉克夫のコラム
【知道中国 2295回】
──英国殖民地だった頃・・・香港での日々(香港177
より、部分転載。
(略)
大正元年に出版された『支那風韻記』(川田鐵彌 大倉書房)は、「論語の眞髓は、全く日本に傳はつて、支那には、其の實が洵に乏しい」。「書物など讀むにも、用心して之を見ないと」、「支那人の書いた書物に、讀まれて仕舞ふようになる」。「元來正直な日本人など」は「日本化された漢學で、直に支那を早合點」してしまう。だから、「四書を始めとして、何れの書も、意味をアベコベにとると、支那人の性情が、自ら分る」と説いていた。
日本人は玄界灘を越えてもたらされた漢字で記された文章を、「返り点」「一二三」「上中下」などを考え出すことによって、外国語であるはずの漢文を、国語の“亜種”として読み下し理解したと思い込んでしまった。
この辺りに誤解の根っこがあるように思うのだが。
日本人をして中国と中国人に対する過度の拝跪・重視、その裏返しとしての侮蔑・軽視──共に見当違い──という心情を抱かしめた主因は、鄧小平が詫びるまでもなく「孔孟の道」であり「漢字」であったはずだ。
たとえば習近平国家主席は「以法治国」を掲げるばかりか、2002年に母校の清華大学から法学博士号を取得している。そこで「法」と言う漢字を知る日本人は、お人好しにも法学博士の習近平は「法」によって国を治めようとしていると思い込んでしまう。だが、ここで習近平が示す「法」は日本人が夢想しているような『普遍的な法』なんぞではない。敢えて喩えるなら、曹操が嘯いた「寧可我負天下人、天下人不負我」──「我(おれ)が天下人(せけん)に負(そむ)こうが、天下人を我に負かせない」──の「我」である。
言い換えるなら「法」と「我」は同義語であり、「我の意思」と等価と言うことになる。
中国における権力者の常識は、中国以外の世界で「非常識」などといった生易しいものではない。敢えて言うなら「超常識」なのだ。そのことを、ゆめゆめ見落としてはならないのである。
(以下略)