「妓生(キーセン)ツアー」のことを知らない人の方が多くなった。
そこでの行為だけを目的としての旅行なんて、日本人としては恥ずかしい限りだが、それを受け入れる体制が「妓生観光」として確立されていたことも忘れてはならない。勿論そこで働いている女性はさらわれてきたわけでもないし、常に暴力を振るわれ、虐げられていたわけでもない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「フェミニストの知性」
私どもが韓国の大学人と学術交流を始めた1972年当時、三十八度線に近いソウル市北の郊外は万一の場合は危険といわれ、それだけ宿代も安かった。果物籠が届けられた。空気が乾いていたせいか、韓国学者の贈物の林檎がうまかった。戦前、鎮南浦で工場建設に携わった父が箱詰めで送ってくれた林檎と同じ味だった。
その宿の古風なオンドルの大部屋で大勢の男が一緒に泊まる。すると韓国人女性が「皆さんは牧師さんのグループですか、それともグループ・セックスか・・・」と揶揄した。当時は夜十二時には交通が規制される。その直前は帰宅ラッシュでバスは満員だ。まだ地下鉄はなかった。だがそんな臨戦態勢もいつか解けて、私たちもソウル市の中心部に泊まるようになった。するとすぐ「女のお世話をします」と電話がかかる。妓生(キーセン)の伝統と関係があるのかどうか、韓国で昔からその職業を経営していたのは誰か。ソウル大学教授が「夜、妙な電話がかかるでしょうが」とあらかじめ注意してくれた。「いや、ご心配なく」と私どもも答えた。
そんな知日派世代との暗黙の了解があったからこそ、会議の冒頭、決まって激しい日本批判や発言が一部にあったけれども、私たちはその声高な発言を一種の通過儀礼とみなして、そのあとは日韓会議を実のある方向に進めようとしたのである。
それでも執拗な電話に懲りた上垣外(かみがいと)が、「同じ部屋に泊まってくれませんか」と私に頼んだことがある。二人部屋にはさすがにその種の電話はかからず、安眠できた。翌朝、早起きした私は先に朝食をとりに降りた。
すると私が出た途端、朝っぱらから上垣外に電話がかかってきた。「女のお世話をします」。
なんでこんな性風俗にまつわる無様なことを書いたのか。非礼と反撥する人のいることは承知している。しかしそれよりさらに非礼なことがその国で行われるかぎり、知識人として私は書かざるを得ない。
ラムザイヤー教授が International Review of Law and Economics に公表したように、多くの国と同様、韓国には戦前も戦後も娼婦はいた。公娼制度があった。戦中の朝鮮の新聞には慰安婦募集の広告も出た。その歴史的実態を無視し、あたかも日本軍が無垢の女をさらって性奴隷に仕立てたかのごとくに言い張り、日本叩きを使命と心得ている者がいる。日本批判のためなら史実を歪めることも辞さない、という正義感は歪んでおり、間違っている。
ところが東大大学院を出た日本の女博士の中にも、虚言症の吉田清治のインチキがそれとわからないフェミニストがいた。クマラスワミ報告書の真偽が見抜けぬような知性は大したことはない。困ったものだ。
日韓関係は慰安婦問題でこじれた。隣国では反日のうねりが異常になった。するとそれに同調する「良心的」な者が日本にも米国にもあらわれた。
「一比較研究者の自伝」
34回 二本足の学者
東大名誉教授 平川祐弘
「月刊Hanada7月号」より
34回 二本足の学者
東大名誉教授 平川祐弘
「月刊Hanada7月号」より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼の国はどんな国だったのか。
同じ揶揄うにしても、宿代を節約するために大部屋を借りていることに対し「牧師の集団」でなければ「グループセックス目的」としか発想できない、「研究のための貧乏旅行」なんて想像すらできない。この女性の発言は、それが当時、普通の韓国人の発想だったということを推察させてくれます。