CubとSRと

ただの日記

命も要らず名も要らず・・・

2021年11月05日 | 心の持ち様
「51の益」のために、「49の我慢」をする
(「顔色一つ変えずに親の仇と握手する」) 
             2013.10/26 (Sat)
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 「他人に後ろ指を指されるようなことはするな」
 子供の頃、そう言われて育った。
 「他人の嫌がることをするな。自分がされた時のことを考えよ」
 中学生の頃、同じく、能く言われた。

 「後ろ指さされ組」、なんてのがつくられた時は、「何とあざとい名前だ」、なんて思ったけれど、そのあたりから「後ろ指を指される」というのが、「良い意味での噂話のたねになる」といったイメージを持つようになってきたんじゃなかろうか。
 それまでは、後ろ向きというより内省的な印象の強かった言葉だったが、反対の意味合いが(おそらくは洒落っ気で)つくられ、本来の意味がぼやけてしまった。
 「やばい」、なんてのはそれだけの洒落っ気もひねりもないけれど、いつの間にか全く反対の意味で使われるようになってしまった。
 「何気なしに」が「何気に」になり、「激しく怒る」が「ゲキおこ」になる。

 「洒落だよ。目くじら立てるなって」
 と言ってる間はほんの一瞬。すぐに
 「いいじゃん、別に」
 と、なり、
 「えっ?そうだったのか?」
 になる。そうやって言いたいことがまともには伝わらないようになる。

 「何、大袈裟なこと言ってんだ。そんなもん、自然に淘汰されるもんだよ。ゲキおこ、なんて今年中に消えるって」
 大方はそうだろう。しかし、一事が万事だ。
 事の大小とか、「是々非々で」、なんて言ってる者の頭に、どれだけ精密な物指しがあるのだ。


 思わず初っ端から脱線したけど、日本は余りに文化が奥深いものだから、逆に意味を知らず、符丁のように言葉を遣っても、それなりに通じたように見えてしまう。
 日本人には大なり小なり「謙虚、思い遣り」などの心掛けが自然に備わって居るため、つい「はいはい」とその場は相槌を打ってしまうものだから、気が付いたら妙な意味合いになってしまった言葉が山積みになってしまうのだ。
 
 そんな、或る意味、弱点となるのが「定義づけ」、だ。日本人は余りそこを詰めようとしない。「定義づけ」どころか「措定」でさえしようとしないくらいだから、再措定など全く「菜ソテー?何、それ?美味しいの?」の世界だ。

 それが今になって、「定義づけ」というのを現政権が重視している。
 こんなことはこれまでになかったことなんだけれど、マスメディア、見事にこれを採り上げない。

 河野談話が今回の騒動で能く取り上げられるけれど、テレビ画面を見ると、成程これは(憲法解釈じゃないけれど)見方によっては百八十度近い解釈の変更も可能だな、とその都度思わされる。

 「安倍政権は河野談話を踏襲する」と菅長官は言い、メディアはブレたと言うけれど、とんでもない。文言、一字一句変えずとも、説明さえ変えれば韓国は一言も文句が言えなくなり、アメリカ初め、諸外国だって口を閉ざすしかない。
 今、学者の研究結果を待つ、という言い方で時間を稼ぎ、その準備が整って、好機が訪れたら、どこの顔も立つような結果発表の為される可能性が高い。

 談話を全く変えず、「改めて」と言いながら、新しい解釈を「これこそが真意」、と欧米相手に(中韓には聞こえることを承知の上で)「講義」する。
 理詰めで行われる筈だから、間間に感情的に割り込むことはできない。

 だってそうでしょう?
 これまで、官僚のつくったこの談話の一言一句を
 「この文章はこういう意味で書かれています」
 なんて、詰めて解釈、説明したこと、一度だってありましたか?みんな「読めば分かる」、と思ってませんでした?
 更には、その文言、テレビ(新聞じゃなくって)で全文を映し、説明したことってありました?
 そんなことしたって、時間がかかるばかりで、面白くもないから視聴率下がるし、と、センセーショナルなところばかり繰り返し報道するのが、テレビじゃないですか。
 新聞だって、全文挙げて解説するとなると、自社の論説委員が談話の文を凌駕するほどの知識と見解を持たねばならない。
 そんな大きな問題をいきなり
 「明日までに原稿書いてくれ」
 って言われて
 「よし来た!任せとけ!」
 、なんて言えます?


 どんどん話がずれていきそうです。
 今回の備忘録氏の日記、政治家について
「定義づけは言うまでもなく、措定もせずに物事を裁定するのは余りにも軽薄ではないか」、
 という意味で部分転載をしようと思います。


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                  (略)

 あなたや私が政治家を目指さないのは、目指しても本物には成れないのは、「人の嫌がることが出来ないから」である。理不尽な我慢に耐えられないからである。

 政治家は、人の嫌がることをする仕事である。顔色一つ変えずに親の仇と握手する仕事である。
 思想的にも、性格的にも絶対に受け入れられない相手と膝詰めで話をし、書類にサインして笑顔で肩を抱き合う、そんな仕事である。

                  (略)

 政治家は、「51の益」のために、「49の我慢」をする人である。普通の人間には、ここまでの我慢はできない。
 職種は違えど出来ぬ我慢をしているのは全く同じだ、同様のことをしていると、主張したい人も居るかもしれないが、それはその職業を選んだ段階で、それを長く続けている段階で、政治家の行う理不尽な我慢とは異なるのである。

 今日着任した大臣が、名前も顔も知らない官僚の不祥事に、頭を下げて記者会見をしなければならない。筋違いであれ理不尽であれ、謝るのが仕事である。 その我慢が政治である。

                   (略)

 問題は、どれだけ我慢が出来る人物かということである。出来ぬ我慢をする人物か、痩せ我慢が何処まで出来る人物か、それが政治家選びの第一のポイントである。

                   (略)

 「言いたいことを言って何が悪い」と嘯くような輩は、排除の筆頭である。「今日の日は、言いたいことも言わずに我慢をして、明日に備える」のが本物の政治家である。「今日言えることは、昨日から仕込済のもの」に限られるのである。昨日における明日が「今日である」、そんな下準備をした者だけに発言が許されるのである。

                   (略)

 性急なる有権者は、性急なる政治家を選ぶ。
 性急なる政治家とは、下準備の出来ない者である。大局に立てず、根回しを怠り、我慢が出来ない小物である。
 小物ばかりを選んでいては、国が傾くのは当然であろう。志ある本物の政治家を排除して、小物の天国を作り、それに都だとか道だとか州だとかのトップの座を与えるつもりなのか。

 性急なる有権者は、落ち着きのない有権者である。狼狽した有権者である。有権者の動揺は国の動揺である。
 動揺した国家ほど、侵略に適した国は無い。侵略行為を呼び込むのは、偏にこの有権者の落ち着きの無さなのである。


             「我慢こそが政治である」

                       ~夕刻の備忘録より~

     http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-935.html

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 今年の五月の末に書いた日記なんですけどね。
 だから、まだ半年もたってないんですけど。
 半年も経たなくたって、備忘録氏はペンを擱かれたし、現政権の評価は混沌として来ました。

 あれだけ熱望されていたのに、備忘録氏がこのエントリーを挙げられた時には、支持者はもう不満たらたらで、相当数が「もう辞めろ、すぐやめろ」と罵り始めていました。
 そうなると、これまで大して支持をしているとも思えなかった人々が、昨年までの政権に言っていたように「まだ、始まったばかりじゃないか」と言うかと思ったら、そんな声はちっとも聞こえてこない。
 なのに、「報道2001」なんか見てると、支持率は60%を常に超えている。
 テレビで流さないだけなんですね、支持者の声を。

 だからと言って、支持の様子に以前の強固さは見られない。

 やっぱり、標題のこと、
 「51の益」のために、「49の我慢」をする、 
 ということをつい忘れてしまうんじゃないか。
 「顔色一つ変えずに親の仇と握手する」
 、のが政治家なんだ、ということを失念しているんじゃないか。
コメント
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