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ただの日記

「一比較研究者の自伝」より  ⑤

2021年11月22日 | 心の持ち様
 一九八五年までは日本文化の全てを無視することにより、日本の統治時代の記憶を風化させようとしていたのではないかと思ってしまうほどの扱いだったのが、一九八八年、李登輝総統の代になって激変する。何故?
 以前に転載した部分の通り、敗戦前の日本で学んだ人々は、それを誇りとしていることに関係がありそうです。意識の改革には具体的な記憶がなくてはならない。

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 「文明開化と植民地化」

 しかし一九八八年、李登輝が総統となるや雰囲気が一変した。それまで御法度だった政治の話も自由となり、映画『悲情城市』が公開された。
 一九四七年二月二十八日の大陸渡来の中国軍による台湾エリート虐殺が取り上げられたのである。日本警察に代わった国民党支配を台湾人は「犬去って豚来たる」といった。国民党は台湾支配の最初の五百日間に五十年間の日本統治よりも多い台湾人、それも高学歴者を処刑した。

 そんなであってみれば、台湾人が日本帝国支配の方がまだましと感じたことにに不思議はない。八八年以降、新聞も変わる。
 本省人の『自由時報』の投書欄が賑わう。逮捕の怖れがなくなれば、人間次々と話し出す。日本の先人の努力が台湾でどのように評価されているか私にも聞こえてくる。

 私は職業柄、日本語教育の歴史に関心がある。日本が台湾で教え始めたのは日清戦争直後、台北士林近くの芝山巌(しざんがん)に伊澤修二が学堂を開いた。治安が悪い。一八九六年、教員六名が惨殺された。土匪の仕業だろうが、国民党政府は一九五八年、その仕業を義民の義挙とし芝山巌事件碑を建てた。そればかりか六氏の墓を壊し、学務官僚遭難碑を倒した。私が見に行った時は、ベンチの下にその伊藤博文筆の碑が転がっていた。植民地支配を悪と断罪する側に立てば、当然の報いを受けたということになるのだろうか。

 だが土地の人の日本人教師に対する気持は違う。士林小学校の卒業生が遭難百年に際し、倒された墓も碑もきちんと建て直してくれた。ただ日本人名は表に出さず、遠慮して「六氏先生之墓」としてある。二〇〇〇年、私は芝山巌に登り、その様変わりを目撃し、感動した。国民党独裁の頃でも戦前の日本を知る台湾人学者の間では、河合栄次郎や矢内原忠雄の評判は良かった。矢内原『帝国主義下の台湾』は植民地支配弾劾の書物ではない。事実に密着した明晰な分析で、台湾人教授が大学でこの台湾論を教科書に用いて授業していた。

 第二次大戦まで西洋では植民地化はキリスト教化・文明開化とほぼ同義と見られていた。日本も台湾植民地化を文明開化の事業として構想した。ただし宗教を広めて死後の命を救う代わりに、衛生を広めて人の命を救おうとした。
 後藤新平のその植民地経営は今も台湾人に高く評価されている。大陸の不潔と異なり、台湾の地下鉄や新幹線のトイレが清潔なのも、日本の遺産といえないこともない。
 ただ私は日本が衛生を重んじたのは、皆さん意識してないが、日本人の広義の宗教心の現われで、清らかさを尊ぶ神道の心が衛生を尊ぶ思想の背後にあるからだと考える。


  「一比較研究者の自伝」
 34回 二本足の学者
   東大名誉教授 平川祐弘

  「月刊Hanada7月号」より

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 「芝山巌事件」
 ちょっと変ですよね。一八九六年の事件を、国民党政府が一九五八年、「義民の義挙」として芝山巌事件碑を建てた。日本の敗戦から十三年後、ですよ。事件の起こった年からとなると、半世紀近い昔。大陸から落ち延びてきた国民党がその辺のいきさつを詳しく知っているわけがない。換骨奪胎して反日のプロパガンダに使ったこと、としか思えない。南京事件と同じ思考形態です。

 >~西洋では植民地化はキリスト教化・文明開化とほぼ同義と見られていた。日本も台湾植民地化を文明開化の事業として構想した。ただし宗教を広めて死後の命を救う代わりに、衛生を広めて人の命を救おうとした。

 この一文は見事に「東(ではなく、日本と西欧、ですか)西の植民地観」の根本的な違いを指摘していると思います。決して司馬遼太郎が言うような「西欧諸国に認められたい」といったような卑屈な姿勢ではない。
コメント
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