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ただの日記

神道は宗教ではない

2022年08月22日 | 日々の暮らし
 道は歩くためにある。
 逆に、歩くから道ができる。歩くことによって必然的に道はできる。
 しかし一度歩いただけでは道はできない。
 多くの人が、或いは一人の人が何度も往来した結果、道になる。

 道とは、だから「生活そのもの」とも言える。
 「剣の心を以て生きる(生活する)」から「剣道」、「柔(和=やはら)の心を以て生きる」から「柔道(やはらの道)」、茶の心だから、生け花の心を以て云々・・・。
 
 では「神道」は、というと「惟神(神の心のまま)」に生きるということになるけれど、これ、イスラム教の「インシャラー(神の御心のままに)」とは随分違う。「神様の思し召し」のように「神が進む道を指示してくれる」のではない。
 神道の場合は「(神様が)見て御座る」だけで、指示はしてくれない。進路選択は個々人の自由。個々人はただ「見て御座る」から恥ずかしくないように行動しよう、と気を引き締めるだけ。「教(え)」ではなく、「道」だから。
 
「指示(或いは啓示・神示)」がないのだから、「宗教」とは言えない。
「宗教」とは「宗(もと)の教(教)え」=考え「方」を「示す」もので、それを我が物にするために「信仰」という手段を取らせる。
 対して、「神道」には、ただ「信仰」しかない。
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 昔書いた日記です↓

 2009.12/31 (Thu)

 宗教というのは、「宗」(もと)の「教」(教え)、つまり、「根っこ或いは大本の考え方」です。

 「すべての元になる考え方」だから、これまで折々に身に着けてきた「物の考え方」と対立するかもしれません。そんな時はどうするか、というと、当然宗教の考え方を採らざるを得ません。「全ての元」になるものの考え方、だからです。
 「神は押しのけつつ抱きしめる」と言うのはそういうことです。

 対して、「信仰」という言葉は、全人格をあげて絶対的に他者(神仏)に頼ることであって、その場合、考え方(つまり、理解)は特に問題視されません。「自分」という「人格」はそのままで肯定されます。自らを投げ出すだけ、です。
 宗教はより高みに導くため「今ある人格」をも全否定するのが前提、と言ってもいいかもしれません。

 となると、「今の日本は危ない。貴方も早くめざめてほしい」と周り(知人、友人、肉親、全て)に働きかけることは、される側にしてみれば(勿論、大いなる思い違い、誤解なんですが)、今の自分を間違いなく否定されたということになってしまいます。
 絶対に何とかして分かってほしいという、こちらの気持ちは空回りして、「大きなお世話だ!」となる可能性大です。 

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 今ある自分を全否定するのが宗教で、その入り口は「自分を今から全否定することを、今の自分の理解能力で納得すること」。
 「信仰」は「自分の全否定」を強制するのではなく、自分を無にするように(努力するのではなく)頼り切る(=自分を投げ出す=大捨)ことを行います。念仏百万遍とか題目称名百万遍とか。
コメント (2)
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