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ただの日記

宗教の入り口(宗教は科学の如く)

2022年08月26日 | 日々の暮らし
 科学はその専科(学)に取り組むための①「専門的な知識」と②「論理的思考能力」と、が必要だけど、最初からそれを持っているわけはないのだから、まずはその①②を手に入れなければならない。それらは併行して入手に努めることになるけれど、②の「論理的思考能力」というのは①と同様に、「論理的思考の定型を覚える」と同時に、使う練習もしなければならない。
 つまり、ひたすら、示された①「専門的な知識」と、②の「論理的思考の定型の暗記」②´「論理的思考の定型の練習・試用」をしなければならない。
 というわけで、宗教よりよっぽど「ひたすら修行・信仰」の生活を送らねばならない。
 それで、「科学は宗教の如く(に、始まる)」、と。 

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 で、やっと、「宗教は科学の如く(に、始まる)」、です。
 これは以前にも書きましたが、「宗教」というのは、文字の意味を読む通り、「宗(もと)の教え」です。科学が「物事の本質を、論理的思考で以って解明していこうとする」のに対して、宗教は「初めから考え方を提示」します。
 その考え方で、全てを解明、というより、「整理する」。
 「何故?」という問いかけをし、それを論理的思考を用いて解いていくことを繰り返すのが、科学の在り方ですが、宗教は初めに答えを出してあり、「考え方」は必ずその答えに到達するための手段とされます。「考え方」というより、「感じ方」という方が、より近いのかもしれません。

 もう一度、繰り返します。
 科学は一つ一つの「問いかけ、解明」の繰り返しの果てに世界(森羅万象)の本質を捉えようとするのですが、宗教は、逆です。
 宗教ではまず、「世界の本質はこうである」といきなり、示される。そして、そこから現在の個々人の捉えているのはここまで、と明らかにしてくれる。
 到達すべきところははっきりしていて、今、自分はどこにいるか、も、事細かに、教えてくれるわけです。これは安心できるでしょう。何をすれば良いか、初めから分かっている。(答えのわかっている問題集に取り組む、みたいなもんです。ご丁寧なことに解答に到達する過程のヒントまでいくつも提示してくれる)
 「あなたは、今、こういう悩みを持って苦しんでいる。悩みのない、幸福な世界に行くには、こうすればいい」
 、と、まあ、こう言って、具体的な取り組み方法を教えてくれる。
 科学が、「世界」を知りたい、と努力して、懸命に目を凝らして霧の彼方を見ようとするのに、宗教はいきなり、「こうですよ」、と教えてくれる。

 でも、冷静になってみれば、実はまだ問題は解決してないわけです。霧の彼方が本当に見えたわけではない。言い聞かされただけです。
 けれども、その具体的な、提示された取り組みを実行すれば、解決する、と断言される。そこに疑いの入り込む余地はない。ひたすら信じ、行ずれば、必ず悩みのない世界に行ける。解決しないのは、まだ疑念があるからだ。そう教えます。

 聖書に「神は押し退けつつ抱きしめる」、という言葉があるそうです。
 (先述の【宗教は「初めから考え方を提示」します。その考え方で、~解明、というより、「整理する」。】がそれです)
 宗教の真相を、実に見事に、しかも簡潔にあらわした言葉です。

 一見矛盾する内容を持つこの文を見れば、宗教とは「宗の教え」というのが納得できるのではないでしょうか。
 「押し退ける」、のは、個々人の中にある、整理されていない色々な物事や、その捉え方、です。
 「抱きしめる」のは、その宗教の説く「本当の世界」の通りに、これまで整理されずにあった、色々な物事、捉え方、を整理し直す、ということです。
 これまで自分なりに悩み、考えてつくってきた「世界」観を、全て、(この場合はキリスト教の世界観によって)つくり直す、ということです。
 別な言い方をすれば、これまでの考え方や感じ方を、全て「宗の教え」の通りに変更しなさい、ということです。その、変更のための努力を「信仰・修行」、とします。

 科学は、最初からその論理を理解する能力を持っている者はいないので、考えるための能力(論理能力)を、まずは、つくらなければならないけれど、ないところにつくるのです、ということは、とにかく、まずは、定型のものをひたすら覚えるしかない。だから、初めは大変です。
 けれど、宗教は全く逆です。提示された「本当の世界」は分かりやすい。到達点が分かっている上に、道程までも明らかにしてくれる。
 方法も簡単です。その気になれば、誰でも取り組めるものです。名号を唱える、或いは、題目を唱える。

 答えは分かっている。方法も提示されていて、言われるままに実行さえすれば、到達は容易だ、と確信が持てるから取っ掛かりやすい。
 答えが分かっていて、道程がはっきりしている。つまり「筋道」が見えている。問題は、既に解けている。
 疑う余地の全くないこの形は「科学的態度と、その結果」そのものに見える。
 つまり、宗教は科学の如く(に始まる)。
 取っ掛かり、宗教は科学然とした顔をしている。筋道がはっきりしていて、(論理能力を手に入れずとも)誰にだって理解できる。一見、様々な問題を快刀乱麻を断つが如き勢いで鮮やかに解いていく。

 皮肉なものです。「科学」という、実に合理的な道具を自在に使いこなすためには、最初、まるで、信仰をしているかと思うくらいの忍従の時期が必要です。「道具が人を選ぶ」というのと同じ。
 逆に、「易しい科学」的な説明で、宗教は簡単に「わかった」気にさせる。

 科学と宗教の入口について、堂々巡りをしてきました。
 論理的思考で以って取り組むのが当たり前の科学は、その論理的思考を手に入れるまでは、とにかく、ひたすら、信仰者のような姿勢が求められる。
 いきなり答え(真理)を提示してみせる宗教は、その答えの、あまりの次元の高さを、初心者に実感させることができず(当たり前、ですね)、ごく初歩的な論理で以って現実の解明をしてみせ、理屈で納得させる。
 「今、現在の整理ができた。それをしてくれた宗教は真理も説いてくれている。筋道が通っている。」そう、思わせます。

 「科学は信用できる。客観視できるから。それに較べ、どうも宗教は胡散臭い。」
 そう思っている人が、何故、宗教、それもカルトと言われるそれにはしるのか。また、オウム真理教のように、東大等の、優秀、と言われる大学の学生や卒業生が多いのは何故か。

 「科学は宗教の如く、宗教は科学の如く」
 私の実力不足でこれより易しく書くことはできません。
 けれど、負け惜しみではありませんが、このことを
 「誰にでもわかるように、易しく説く」ことは、
あまり意味がない、どころか、論理能力を身につける上で、大きな障害にしかならないことを、書き足して、この稿を終わります。



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