CubとSRと

ただの日記

科学の入り口 

2022年08月25日 | 日々の暮らし
 2年半ほど前に「『科学は宗教の如く』、『宗教は科学の如く』」と題した日記を転載しました。元々はその時よりもさらに十年ほど前に書いた日記です。
 (何たる手抜き!)
 そして、今回またそれを再掲しようとしている。それも前回は二回分を一まとめにしたので長すぎた。今回は半分ずつ、・・・と。(もっと手抜き!)

 ・・・手抜きみたいですが、これ、当時も能く言われたオウム真理教などの信者のことで「なぜ、あんなに頭のいい人がカルト宗教に・・・」とか「あれだけの高学歴の人が何で?」「宗教になんか全く興味を示さなかったあいつが?」等の不思議がられたことと直接関係があると思うので、やっぱりゆっくり読んでもらった方がいいかな、と。

 ところでいきなり脱線しますが、同じカルト宗教と言っても「オウム真理教」と「統一教会」は随分レベルが違います。方や仏教(?)、もう一方はキリスト教(?)ながら、どちらも教祖は朝鮮人。一方は在日二世、一方は宗教団体のリーダーの姿をした政治活動家。けれど心境のレベルが違う。オウム真理教の方が全く上です。何故って、「空中浮遊」をするのですよ?事実(奇蹟)を見せつけて一瞬で信者を虜にする方が上に決まってるでしょう?

 新しい宗教活動には必ず「法難」が訪れます。法難が訪れなかったとしたら、それは「本質が宗教活動ではなかったから」、です。
 「宗の教え」を貫くには全てを否定しなければなりません。全てを否定しようというのは現実社会を否定するということですから、「法難」という形で現実社会から反撃され、一旦は敗退しなければなりません。「魔法のリノベ」を目指したって駄目です。現実社会を安心させ、「少しなら受け入れてやっても」、という余裕を持たせてからが、布教の始まりです。


 さて、「何故あんなに頭のいい人が・・・」等の不思議の、理由の大半だと思われるのが「宗教とは何か」「科学とは何か」をじっくりと考えることがないままに大人になる日本人が大半であるというところにあります。
 「一度考えてみようか」と中高辺りで提案でもされていれば、少しは変わったのでしょうが。

 では、今回は「科学は宗教の如く」だけ、再掲します。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 2010.09/20 (Mon)
 偶然見つけた一冊の本を読むうち、それが論文の態を成していないのに、相当に高度な論文で、気付かず、小説のように引き込まれ、にも拘らず推理小説の正反対で、読み進むうちにどんどん分からなくなる、という体験をしたことがあります。
 徹底的に打ちのめされた。
 読み終わりはしたものの、読了感が全くなく、二十歳前にして初めて、その後三十数年にわたって、折に触れて読み直すことになった本との出会い、と成りました。ああ、ややこしい。

 簡単に書きます。
 二十歳前、偶然手に取った一冊の、それも、新書のことです。
 随分くだけた文の調子で、とても読みやすい。調子に乗ってしばらく立ち読みし、ざっと最後まで目を通して、ちゃんと読もう、と買って帰った。
 早速「ベッドに寝転がって」読み始めた。


 ところが、読んでいくうちに「?」が点りだす。最初のうちは、「?」を無視して読んでいるんですが、段々に「?」の点灯の間隔が短くなる。三分の二を過ぎた辺りになると、点滅状態。そして、終わりの頃は点きっぱなし。つまり、全く分からない。
 あとで分かったのですが、これが「論理的思考」との最初の出会いでした。
 そして、これが弁証法との出会いでもあったのです。
 
 まあ、そんなことは、今はこの程度の話で良いでしょう。
 ここでは、「科学は宗教の如く」について、です。

 「科学」は、「論理的思考を用いて行う学問の形」、です。
 「科」、つまり、あらゆることを分類して、その、分類された一つのことを「学」として成立させ、解明に取り組む。そして、最終的に、そこから学問全体の説明をできるまでに、なる。科学は、哲学と同じく、本質の解明を「めざす」学問なのですから。
 (蛇足ですが、科学の成立により、哲学は科学の一分野としての位置づけしかできない学問になってしまい、存在そのものが危うくなってしまいました。それで、一時期、「(科学の出現により、)哲学は死んだ」とのセンセーショナルな表現が流行しました。)

 科学で用いるのは論理的思考ですから、まず、「論理」ということについて、納得(得心)しなければなりません。
 でも、最初っから、というのは無理、です。それまでに、論理なんて持ってない、「自分の現在の能力の範囲内でしか理解できない」のですから、なかったものを納得、なんてできません。


 それでは、初めに、何をするか。
 「論理的思考を以って、特定した分野の本質の解明をめざす」のですから、まずは、二つ、しなければならない。
 一つ目は、「特定した分野」、なのですから、その分野について、知らなければならない。単純に言えば、知識の収集、です。
 その中で、当然「専門用語」を、学び、覚えなければならない。これは、みなさん御存知のことです。専門家を目指すのです。よく知っていて「業界用語」も駆使できるようになること。当然ですよね。

 二つ目。問題は、こちらです。
 いくら専門用語を覚えて、その科「学」に取り組もうとしたって、知識を並べ立てるだけでは、「本質の解明」に近付くことはできない。
 知識を並べ立てるのでなく、知識を用いて、その「科学の仕組み」を明らかにする。そのために論理的思考を駆使することができるようになるのが、科「学者」なのですから、二つ目、というのは当然、論理的思考能力を手に入れる、ということになります。
 けれど、この、「論理的思考能力を手に入れる」ったって一体、どうやればいいのか。第一、「論理」ということ自体、分かっているようで、分からない。単純に「論理能力」と言っていますが、「論理的思考能力」、というのは、何かを真剣に考えれば、自然と手に入る、身につく、といったものではありません。
 仮に、身についたとしても、それが有効である、とは限らない。
 「外れることのない物の考え方に限る論理」、を手に入れる。法則、公式は、論理の一つの形です。

 「そんなもの、知識として覚えているじゃないか」、と思われるでしょう。
 そうなんです。一つ目のところで、「知識」として覚えている。けれど、だから、「知識のまま」、なんです。
 論理的思考能力を手に入れるには、その、「知識としての法則、公式」を、どのようにして組み上げて(本質に接近する何らかの)結論が出されたか、を見詰め、その行程を、まずは丸暗記することです。
 たとえば、一つ目は英単語を覚えることであり、二つ目は、それを用いた例文を覚えること、と言えるでしょうか。
 単語を覚えたら、適当に並べるうちに、会話はできるようになるでしょう?
 しかし、それは片言の英会話、在日十年、日本語ペラペラ、という外国人のレベルどまりです。
 二つ目の「例文を覚えること」を徹底すれば、場合によっては(発音は別にして)日本人以上に、見事な日本語を話せます。

 科学として、これを捉えれば、どの分野であろうとも、典型的な論理展開の形を、まずは、「丸暗記する」こと。これが何よりも大事です。
 一つ目と二つ目は、本来、同時に行われるべきものですが、一つ目だけ、取り組む方が、急激な上達を見せます。「そういえば」、と頷かれることはありませんか?だから、それは英会話どまりです。頭打ちになってしまう。

 「科学は宗教の如く」、取っ掛かりは、丸暗記。
 分かろうがわかるまいが、いや、全く分からないことを、とにかく、まるで「信仰する」かのように、全面的に絶対肯定の態度で、その論理展開を覚える、しかない。
 その姿勢(全面、絶対肯定)は、まるで熱心な信仰者の態度です。


 「科学は宗教の如く(に、始まる)」
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 まるで宗教に於ける信者(信仰者)の在り方のようだ、ということで、
 「科学は宗教の如く(に始まる)」ということを、書いてみたのですが、まあ、早い話、一言で言えば、
 「科学的~、というのは、実は、随分と取っ付きにくいもので、とりあえずは、『信じる』しかない」
 、ということです。 

 私もこうやってこねくりまわして、えらそうに書いてはいますが、個々の科学に関して、何か言えるのか、となると、まず、第一の「知識」の時点でお手上げです。もう、手も足も出ない。それが専門というものです。
 けれど、「本質に向う」ということに関して、また、「学問」ということに関しては、誰だって同じ立場をとるべきです。
 とにかく、「科学的であるためには、初めはまず、信じる(信仰する)こと」
、とだけ、言っておきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする