CubとSRと

ただの日記

立ち読みに

2019年03月26日 | 日々の暮らし
 これ以上ない上天気。
 雲一つない青空で、風もほどほど。
 なのに外に出る用事がない。
 用事など、つくりゃできる。
 体調が悪い?いや、それほどでもない。
 なのに用事を作ろうとしないのは何故?
 確かに、こんないい天気なのに腰が痛い。
 だから、か。
 以前に
 「家の中が黴臭いから日記を書く気になれない」
 と書いたことがあるけど、ホントに些細なことでやる気をなくす、ということは能くあるもので、それを他人は
 「何だ、単なる怠け者じゃないか」
 と切り捨てる。
 そこに何か重要な「考え方の秘密」があるかもしれないのに。
 ・・・・と、そうこう言っているうちに一時を過ぎてしまった。
 いつものパターンだ。

 こんなに良い天気の日にクルマで出る、なんてあり得ない。
 だから、カブか、SRか。
 どっちにしようかな~。

 なんて言ってないで、今日は確か「月刊Hanada」の発刊日。
 じゃあ、立ち読みに行くか。気が向けば買えばいい。
 きっと「月刊Will」も同日発売だろうから、見比べるとするか。
 よし。じゃあ出発!



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「取捨選択」(「分」の続き)

2019年03月25日 | 重箱の隅
 「分」だって、「分際」という言葉とその一般的な遣われ方が醸し出す雰囲気に「分」の本来の意味が覆い隠されてしまっているのじゃないか。
 これが「分際」でなく「分担」だったら?
 「担」は「担(にな)う」、「担(かつ)ぐ」、だ。
 「男の分、女の分」が「男の分担と女の分担」なら、精神的にも身体的にも「長所、短所などの基準で良し悪しを判ずる」のではなく、逆にそれぞれの「相違点を十分に把握して特徴を活かす」という積極性が見えてくるのではないか。
 「分ける」というのは、決して一方を切り捨てるということではない。
 目を三角にして相手を論詰するよりも、取り敢えずは長所短所からでもいいから、先ずはもっと冷静に見れば、活かせる部分も見つかるのではないか。
 まあ、
 「四輪と二輪、どちらが『優』れている?」
 なんて見方ではなく、
 「四輪と二輪、それぞれの長短は?」
 、と取り敢えずはそれぞれの存在を肯定して、ということだ。
 ただ、「それぞれの良いところだけ、手に入れよう」とか「良いところは習って、悪いところは倣わない」というのは正しい在り方だけど、自身がじりじりするくらい辛抱しなければならない。焦ると失敗する。
 その気はなくとも、表面だけで早合点して、打つ手を間違える。群盲、象を撫づ。
 見詰める努力をし始めたばかりでは、良し悪しの判断自体、精確な物差し(考え方、理解能力)がまだできてないことが往々にしてあるので。
 明治時代の「琉球処分」などでも、字面だけ見て「日本に処分された=切り捨てられた」などと解釈するから、昭和天皇が沖縄を見捨てたので、サンフランシスコ講和条約の日は「屈辱の日」だ、などと大騒ぎをすることになる。
 (島津藩の支配下から、鹿児島と同格の「県」になることは「切り捨てる」ということになるのか?)
 (発言力のない状態の天皇が「日本の主権を残したままの長期租借(25年ないし50年、あるいはそれ以上)を要請することで、米国に永久支配をさせない、という仕掛けを作った」のは、沖縄を見捨てたということになるのか?)


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2019年03月24日 | 重箱の隅
 「分を弁(わきま)えよ」
 なんて言うと
 「同じ人間。それは差別だ!」
 とか
 「男女の違い、とか。封建的!」
 とか言って、柳眉を逆立てる人がいる。
 …なんてことを言うと
 「柳眉という表現自体、ヘイトスピーチ!」
 とか・・・。
 「女が一本眉毛だっていいじゃないか!」
 、って?
 でも、この「分」って一体どういう意味なんだろう。
 「分際」と言えば、「女の分際で!」という言葉がすぐ浮かぶ。
 「学生の分際で」、「弟子の分際で」なんていうのもある。
 けど、「分」も「際」も別々に見たらどうってこともない意味だ。
 「際」というのは境目のこと。日本語では「きわ」。
 じゃ、「分際」は「物を分ける時の境目」という意味しかないんだけど。
 これって、あの、以前に日記に書いた「島国根性」と同じなのかもしれない。


 ・・・・・・
 付け足し)以前の日記から
  ↓
 元々、「島国」にも「根性」にも悪い意味はないのに、くっつけると何だか「偏狭でひねくれた後ろ向きの国民性」みたいに思われる。
 「島国根性」
 周りのことばかり気にして、卑屈になる。自分らだけが取り残されているのではないか、とおろおろしてばかりいる。自身の弱小であることを知るが故に、常に良いものを手に入れようと耳をそばだててばかり、いる。主体性を持たない。
 そういう意味でのみ使われてきた。けど本当はそうじゃない。
 全く逆の意味にもとれる。
 「進取の気風に富み、物怖じしない。国の意識は持ちつつ、外向の気に溢れ、小さいことにはこだわらない」
 順を追って考えてみれば、これこそが「島国根性」の真の姿だ


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珍しい

2019年03月23日 | バイク 車 ツーリング
 一月は一回。二月は二回。
 なのに、今月は既に四回、クルマに乗っている。
 昨日は散髪、今日は兵庫ダイハツまで新しく出た冊子をもらいに。
 前回は同じ冊子をSRでもらいに行った。
 今回はコペンで行った。
 今回は「何か飲み物でも」と言われたが、冊子をもらいに来ただけだから、何か申し訳なくて遠慮した。
 SRで行った時は、何も言われなかったのは何でかな?
 いやいや、前回は受付の席の近くに山積みにしてあったから、すぐ渡してくれたんだった。
 今回は届いたばかりで、まだ店頭に持ってきてなかったから、待たせる時間稼ぎに、「何か飲み物でも」と言っただけなんだろう。きっとそうだ。そうであってほしい。

 そう言えば、この頃はほとんどのGSがセルフサービスになったけど、価格は思ったほど安くならない。理由はガソリン税が元々高いから。
 安くならないけど、人員削減のためサービスは全くなくなった(できなくなった?)。
 そんなサービスの中で思い出すこと。フロントガラス拭き。
 バイクで行くといつも
 「量は少なくても同じ客なんだけどな」
 と、思わされた。。
 勿論、バイクにはフロントガラス、ないから。当然拭いてくれるわけはない。
 それが羨ましい。
 でも、フロントガラスはないが、ハンドルミラーはある。
 意外に汚れてるけど、なかなか走り出すと拭く機会がない。で、走りながらグローブの甲で取り敢えず拭いたりする。当然きれいには拭けない。
 何かの拍子に、給油した後ハンドルミラーを拭いてくれるGSがあったりすると、その日一日うれしかったりする。
 数十回に一度あればいい方だけど。
 今はセルフサービス、となっているから、客から声を掛けられなければそういうことはやりにくい。
 でも、例えばバイク専用の給油ブースなんかを用意するなら、そこに
 「ハンドルミラー拭きに使ってください」
 と、張り紙をして、きれいなぞうきんを置いとく、とかね。
 使わなくても、
 「次もここに来るかな」
 という気になるような、気がする。

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2019年03月22日 | バイク 車 ツーリング
  ・・・・・・・・・・・・
 バッグを片手にブラ下げ、二人で駐輪場に向かっていると、同じクラスの生徒が近づいてきた。
「カッコいいですね。これから風になるんですか?」
 他人から積極的に話しかけられるのが苦手な小熊は、目を合わせず黙って頭を頷かせた。
話しかけてきた生徒のことをある程度知っているらしき礼子は、胸を張って「そうよ」と言った。
 それ以上話が続くこともなく、クラスメイトは離れていく。小熊は礼子を見て言った。
「風だって」
 礼子は軽く鼻を鳴らしながら答える。
「風が何だってのよ」
    ~(略)~
 
 ~二人がよく言われるのが、この風というものの絡んだフレーズ。バイクに乗ることをよく風になると言うが、小熊も礼子もカブに乗り始めて以来、そんな印象を持ったことは無い。
 バイク乗り、特にカブのような原付きに乗る人間にとって、風は一体感を覚えるというより、忌避する類のものだった。
 ただでさえ非力な原付は風が吹くと最高速度を削られる。スクータータイプの原付より車重の有利は多少あれど、側面投影面積の大きいカブは横風にも弱く、不意の突風で車線の左右に押し付けられ、肝を冷やす思いをさせられたことは何度もある。
    ~(略)~
 雨の日も、レインウェア無しで乗り切れそうな小雨は、風が吹くと全身をズブ濡れにさせる風雨となる。 

  角川スニーカー文庫
    トネ・コーケン「スーパーカブ2」より
  
     ‥‥・・・・・・・・・

 昨日は春の嵐。昼過ぎまで強風が吹いていた。
 この小説の中にある「風になる」という言葉だけれど、周囲にはそんな素敵な言い回しをする奴は居なかったのが残念。でも、以前に小説か何かで目にしたことのある言い回しではある。
 そう言えば「エンジンに火を入れる」ってのも小説で見ただけだな。小説でも「気障ったらしい!何だこれ」、と思ったけど。スイッチボタンを押すだけじゃないか。チョーク引いて、キックアームで上死点探して、「掛かれ!」と念じながら踏み下ろすわけじゃないだろ?・・・・あ、また脱線した。
 バイクに乗ったことのない人は「風になる」という言葉を、どんな気持ちで口にするんだろうな。
 「よくやるよねえ~、寒かろうに」
 という若干のからかいの気持ち、は・・・あるな。
 「ちょっとカッコイイ、・・・かな?」
 といった羨望もあるかも。
 でもやっぱり一番大きいのは「危ないのに」、だろうな。乗ってる本人の身体のことを心配してくれているわけだ。有難いことだ。「貴方のことが心配だから言ってるのよ!」って。残念ながら言ってくれる人はないけど。
 そう言えば落語家の柳家小三治が、どうしてもバイクに乗りたくなって、でも、家で言ったって賛成してくれる筈はない。それなら既成事実を作っちゃえ、ということでヤマハのXS750だったかを買ってしまったんだって。
 そしたら奥さんがこれまで見たこともないような鬼の形相になって怒りだした。
 勿論、「貴方のことが心配だから言ってるのよ!」って。でも、バイクは買ってしまった。
 散々叱られて、〆の言葉が「ちゃんと生命保険に入ってよ!」・・・・。
 まあ、そこは長年連れ添った夫婦だから、ホントのところは分からないけどね。

 「風になる」。
 カッコいい言葉だけど、乗ってる奴はそんなロマンチックな(というか)、歯の浮くような科白は口にしないと思います。「汝の敵を愛せよ」って言われたって、ね、風を愛しても風は敵のままだからね。
 こっちだって風を「切って」走ってるんだから。
 「火を入れる」は言う奴がいるかもしれない。
 もっとも、そんな言葉を聞いたら(え、え~?)と思いながら十歩は後ずさりするけど。 



 
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