CubとSRと

ただの日記

「一比較研究者の自伝」より  ⑦(これで終わり)

2021年11月25日 | 心の持ち様
 「中国にとり国恥とはなにか」

 一九九〇年代~~あのころ北京へ赴いたほかの日本人専家たちは、おおむね善意の人々だったが、今どんな意見だろうか。
 多くの人は隣国との比較に於いて内心「日本人に生まれてまあよかった」と感じているのではないか。往年のかの地の学生たちは今どこでどう感じているのか。また在外華人となった人々は何をどう考えているのか。
 その第二世代、第三世代は何国人として生きるだろうか。中国が強盛ならば中国人として立ちまわるのだろうか。どこの国の人と結婚するのか。何語を話すのか。自由を求めて声をあげるのか、あげないのか。

 中国の多くの知識ある人は、現在の祖国の繁栄を一面では喜ぶとともに、はたしてこのままで良いのかという不安を抱いているのではないか。
 フランス革命の後、ブルジョワジーは発言権をもった。言論の自由がそれである。改革開放の後、中国には資産階級があらわれた。政治的影響力も陰に陽にあるのであろう。しかし公然と発言する権利はない。米国はじめ周辺諸外国が習近平政権が、軍事力を背景に、高圧的で膨張的な大中華主義を推し進めることに不快を感じるのは当然だろう。

 中国に住む人は自国の非を容易に認めない。劉明福は『中国夢』で自国について「歴史清白、道徳高尚」と肯定し、中国は世界大国中唯一の「没有原罪的国家(原罪を持たない国)」だと自負した。「何を言うか」と呆れるだろうが、戦前の日本の皇軍の将官も劉大佐のような口を利いた。

 中国の教科書では、自国のマイナス面は、文化大革命などの悲惨も、教えない。そんな歴史教育の結果、人民の多数は自国の過去を薔薇色に思い浮べる。そんな中華的な自己満悦のみが許される、閉鎖された言論空間であればこそ「中国の歴史に汚点はなく、我が国の道徳は高尚であった」とぬけぬけと言い、「没有原罪的国家」という自己規定もできる。
 「世界の諸国は他国を侵略したという原罪があるが、わが中国にはそれはない」と胸を張る。

 だが党に対する批判をはじめ自己批判のない言論空間こそ、中国の国恥なのだと認識すべきだろう。
 中国は軍事や経済の現代化だけでなく政治の現代化に踏み切るべきだったのだ。国内改革こそ米国に対処する上での中国のもっとも佳き選択のはずである。
 「重啓改革是應対美国的最佳選択」とは、中国の心ある人が考えていることではあるまいか。
 
(「改革がアメリカに対する最良の選択ではないか」、くらいの意味だろうか)

 
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昨日は

2021年11月24日 | 日々の暮らし
 11月23日は新嘗祭。だから国旗を揚げた。
 ただ、風が強くて旗竿が心配なので、継ぎ手を一つ減らして掲げてみた。
 当然、ちんちくりんになる。
 「でもまあしょうがないか。曲がってしまって以降使えなくなる、なんてのよりはいいよな」。

 ということで掲げてはみたものの、西に低くなる六甲山の尾根上の道、南に傾けて立てた旗竿上の日の丸は吹きつける強い西風に煽られて、体操の大車輪のようにあっという間にくるくると旗竿に巻き付く。風に翻ったり翩翻とはためいたりしない。ちょっと目を離せばきちんと止め紐で留められた傘のようになってしまう。
 だから旗竿の傾け加減は結構工夫が必要だ。

 昨日はさらに難しい状況になった。何しろ旗竿を短くしたわけだから出入りの際に普段は当たるはずのない国旗が顔に当たる。
 だったら門じゃなくって、玄関のところに掲げればいいようなものだけれど、門に掲げるのは行き交う人に見せびらかすため、だからね。

 「国旗持ってるんだぜ、すごいだろ」ということじゃない。
 「今日は祝日(或いは祭日)ですよ」と気付いてもらう、ということだ。公営バスが祝祭日に市章と国旗を掲げて走るのと同じだ。

 あ、こういうことを書くんじゃなかった。
 11月23日は「新嘗祭」と言うことで、この二十年余りで結構名が知られるようになった「岩津葱」が一斉に売り出される日になっている。
 「それを買いに行かなきゃなあ、いつにしようかな」、と。それだけ書くつもりだった。

 (何でも、江戸時代、京都の九条ネギを持ち帰って朝来(あさご)市の岩津というところで栽培が盛んになったらしい。)
 

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「一比較研究者の自伝」より  ➅

2021年11月23日 | 心の持ち様
 「西洋の植民地支配は良いのか」

 教育、生活、経済面で善政を布いたとしても、植民地化は、植民者という一級市民と被植民者という二級市民を生み出すがゆえに、悪である。
 しかしそうと認めない国もある。チベット支配を続ける中国は王道楽土を建設中と言い張る。サッチャー英国首相は一九八八年、「西洋人が世界の多くの土地を植民地化したのは、すばらしい勇気と才覚の物語でした」と肯定した。コータッツィ大使も「白人の責務」という発想を支持した。

 世間には、西洋の植民地支配は肯定するが、日本のそれは非難する者がいる。偏した見方だ。ライシャワーはかつて広く読まれた東アジア歴史教科書で、日本の台湾統治を否定的に記述した。それは第二次世界大戦中の反日プロパガンダの名残の歴史観で、台湾の歴史的現実に必ずしもそぐわない。
 そんな歴史教育を受けた米国人は、現地で「台湾人は日本が大好きだぜ」と驚く。
 
 問題は日本が台湾統治に成功したことだ。実はそれが朝鮮における失敗となった。
 化外の地の台湾と違って朝鮮は一つの文明の国である。その朝鮮全体を奪うことは朝鮮民族の誇りをも奪うことになったからである。歴史の真実はそんな相違を見分ける眼識にある。日本植民地支配は悪いという「始めに結論ありき」のイデオロギー的史観に合うよう材料を恣意的に並べただけのNHKのテレビ番組があったが、安直な制作で、史実を歪めた。受信料を払うに値しない。


  「一比較研究者の自伝」
 34回 二本足の学者
   東大名誉教授 平川祐弘

  「月刊Hanada7月号」より

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 >植民地化は、植民者という一級市民と被植民者という二級市民を生み出すがゆえに、悪である。

 「植民地化というのは、まずは『文明開化』を目的にするのだけれど、植民者がどこまで努めても、一級と二級という差別は消えない。だから悪」、と言うのは至極尤もな考え方だけれど、サッチャー英国首相は「西洋人が世界の多くの土地を植民地化したのは、すばらしい勇気と才覚」からだ、と肯定した。「植民地化は『悪』」という発想は欠片もない。ただ「未開の土人を助けてやった」と思っているだけだ。そこで命懸けで取り組んだ(勇気)から少しくらいは金儲け(才覚)したってかまわない、という考えから一歩も進んでいない。

 「すばらしい勇気と才覚」は一体何を目的としていたのか。言うまでもなく前回に書かれてあった「キリスト教化と文明開化」のために勇気と才覚は活きた。そして「植民地化することによって、争いのない安心のできる生活を『与え』、魂を『救う』ことができた」。
 慈悲の手を伸ばして蓮池の底でうごめく亡者を救うお釈迦様になっている。お釈迦様だから、同じ人間として「一級、二級」などという見方は、ない。何とも傲慢だと思うのだけれど・・・。
 これが白人優越思想だと断言して良いだろう。

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「一比較研究者の自伝」より  ⑤

2021年11月22日 | 心の持ち様
 一九八五年までは日本文化の全てを無視することにより、日本の統治時代の記憶を風化させようとしていたのではないかと思ってしまうほどの扱いだったのが、一九八八年、李登輝総統の代になって激変する。何故?
 以前に転載した部分の通り、敗戦前の日本で学んだ人々は、それを誇りとしていることに関係がありそうです。意識の改革には具体的な記憶がなくてはならない。

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 「文明開化と植民地化」

 しかし一九八八年、李登輝が総統となるや雰囲気が一変した。それまで御法度だった政治の話も自由となり、映画『悲情城市』が公開された。
 一九四七年二月二十八日の大陸渡来の中国軍による台湾エリート虐殺が取り上げられたのである。日本警察に代わった国民党支配を台湾人は「犬去って豚来たる」といった。国民党は台湾支配の最初の五百日間に五十年間の日本統治よりも多い台湾人、それも高学歴者を処刑した。

 そんなであってみれば、台湾人が日本帝国支配の方がまだましと感じたことにに不思議はない。八八年以降、新聞も変わる。
 本省人の『自由時報』の投書欄が賑わう。逮捕の怖れがなくなれば、人間次々と話し出す。日本の先人の努力が台湾でどのように評価されているか私にも聞こえてくる。

 私は職業柄、日本語教育の歴史に関心がある。日本が台湾で教え始めたのは日清戦争直後、台北士林近くの芝山巌(しざんがん)に伊澤修二が学堂を開いた。治安が悪い。一八九六年、教員六名が惨殺された。土匪の仕業だろうが、国民党政府は一九五八年、その仕業を義民の義挙とし芝山巌事件碑を建てた。そればかりか六氏の墓を壊し、学務官僚遭難碑を倒した。私が見に行った時は、ベンチの下にその伊藤博文筆の碑が転がっていた。植民地支配を悪と断罪する側に立てば、当然の報いを受けたということになるのだろうか。

 だが土地の人の日本人教師に対する気持は違う。士林小学校の卒業生が遭難百年に際し、倒された墓も碑もきちんと建て直してくれた。ただ日本人名は表に出さず、遠慮して「六氏先生之墓」としてある。二〇〇〇年、私は芝山巌に登り、その様変わりを目撃し、感動した。国民党独裁の頃でも戦前の日本を知る台湾人学者の間では、河合栄次郎や矢内原忠雄の評判は良かった。矢内原『帝国主義下の台湾』は植民地支配弾劾の書物ではない。事実に密着した明晰な分析で、台湾人教授が大学でこの台湾論を教科書に用いて授業していた。

 第二次大戦まで西洋では植民地化はキリスト教化・文明開化とほぼ同義と見られていた。日本も台湾植民地化を文明開化の事業として構想した。ただし宗教を広めて死後の命を救う代わりに、衛生を広めて人の命を救おうとした。
 後藤新平のその植民地経営は今も台湾人に高く評価されている。大陸の不潔と異なり、台湾の地下鉄や新幹線のトイレが清潔なのも、日本の遺産といえないこともない。
 ただ私は日本が衛生を重んじたのは、皆さん意識してないが、日本人の広義の宗教心の現われで、清らかさを尊ぶ神道の心が衛生を尊ぶ思想の背後にあるからだと考える。


  「一比較研究者の自伝」
 34回 二本足の学者
   東大名誉教授 平川祐弘

  「月刊Hanada7月号」より

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 「芝山巌事件」
 ちょっと変ですよね。一八九六年の事件を、国民党政府が一九五八年、「義民の義挙」として芝山巌事件碑を建てた。日本の敗戦から十三年後、ですよ。事件の起こった年からとなると、半世紀近い昔。大陸から落ち延びてきた国民党がその辺のいきさつを詳しく知っているわけがない。換骨奪胎して反日のプロパガンダに使ったこと、としか思えない。南京事件と同じ思考形態です。

 >~西洋では植民地化はキリスト教化・文明開化とほぼ同義と見られていた。日本も台湾植民地化を文明開化の事業として構想した。ただし宗教を広めて死後の命を救う代わりに、衛生を広めて人の命を救おうとした。

 この一文は見事に「東(ではなく、日本と西欧、ですか)西の植民地観」の根本的な違いを指摘していると思います。決して司馬遼太郎が言うような「西欧諸国に認められたい」といったような卑屈な姿勢ではない。
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「一比較研究者の自伝」より  ➃

2021年11月21日 | 心の持ち様
 「相手を知り己を知る」

 歴史の真実を見分ける「眼識」はどうすれば養われるのか。朝鮮半島と台湾の違いについてふれたい。私は華人の学生は留学生や大陸だけでなくシンガポールや台湾でも教えた。
 日本とシナといおうか、我国と漢民族の関係も様々な視角から眺めると、日本の大新聞の社説で正解と目されているのとは違った歴史も見えてくる。~~
     (略)
 ~~一九八五年、台湾へ教えに出かけた。~~台北で日本語を教えていた大学は当時は僅か四つで、台湾人創設の私立大学のみだった。蒋介石軍は日本が創った国立学校を掌握した。
 旧宗主国の影響を排除したい。国立には日本語系の学科はない。実は私も私立大学で、表向きは東方語名義で教えた。共通一次の成績で学生は私大入学も割当てられる。教室へ出て初めて東方語が日本語と知った者もいた。


  「一比較研究者の自伝」
 34回 二本足の学者
   東大名誉教授 平川祐弘

  「月刊Hanada7月号」より

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 今回は短いですが、手抜きではありません。
 朝6時でなく、今頃(現在、正午過ぎ)になって更新 するというのも決して怠けていたからではない。朝、7時半には朝食を摂り、片付けをして・・・。
 何で今頃になったのかな?
 何となく分かってるんだけれど、気付かないようにしている、半ば無意識に目を合わせないようにしている、ってこと、ありませんか?
 今回の転載はちょっとそれに似ている。
 一九八五年、中華民国の国立大学には日本語系の学科はなかった。
 戦争に敗れ、清国から割譲された台湾を放棄させられたのが一九四五年とすると、四十年間、日本経由の日本語を用いる学問は国の正統な学問ではなかった、ということになります。
 「東方語」。「東方の言葉」だから。半島国が日本海を「東海」、というのと同じ「中華思想」。
 何とも安直で曖昧な名前で日本語が称され続けた結果、「日本に捨てられた」という恨みから「犬去って豚来たる」と初めは言っていた、日本に対する興味、関心は薄れていきます。

 人気商売でなくとも「好かれるのが一番だ。嫌われることもある。それもまあ良い。無関心が一番怖い」。
 二十近い山地民族(海辺の民族もいるけど)と、大陸からやってきた人々は言葉が通じなかった。それどころか山地民族同士が言葉が通じない。日本語が共通語になったのは当然のことでしょう。そこに他人のことには無頓着な漢民族がやってきて支配をする。
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