マケドニア人の彼氏との結婚準備で超ハッピーなエミリアと、一人でもう少しマケドニアを見て回りたいという日本からのゲスト・・・ 私は忙しいので1泊のみ(笑) 二人のドライバーっつーことで。でも、せっかく来たのでいろいろ見てみたい・・・
マケドニア広場、「カメン・モスト(訳すと石橋! そのまんまヤン・・・)」、旧市街と一応スコピエでおさえるべきところをおさえてみました。 橋のところや街角にはこんなアートも。(ちなみにこの飛び込みのアートのすぐそばには「遊泳禁止」の立て札・・・
大きな違いは・・・ モスクがいっぱいあること。ブルガリアではそこまで頻繁に見ません。ソフィアの中心に一つ、そしてトルコ系の多い町にはそれぞれある、って感じかな~。スコピエには旧市街だけでなくロマの集落にもドーンとモスク!! 基本的にマケドニアのロマの人たちはイスラム教徒なんだそうです。
で旧市街の一軒のトルコスイーツのカフェへ。そこのバクラーヴァとトゥルンバのおいしかったこと!! サイズもブルガリアで見るものよりビックでずっしり、シロップもシミシミですごいボリューム! ただ、このトルコ人っぽい人たちの集まるあたりの人々はマケドニア語じゃない言葉を話していました。トルコ語?「たぶんアルバニア語よ。旧市街はアルバニア人も多いの。」とクラウディア。(「室長」さんのコメントの通りです・・・)
ブルガリアも国境を接し、言葉にも文化的にも大きな影響を受けているトルコ。でも80年代にブルガリアはトルコ系住民を追い出したり、同化させたりする政策をとっていたせいか、そしてブルガリアの中でも比較的トルコ系住民が多いといわれる都市(シューメン、カルジョリなど)にわたしが行ったことがないから見たことがないせいか、イスラム教徒、特に女性で頭に覆いをつけている人はほとんど見ないのですが、特にスコピエ旧市街では頭に覆いをつけた女性の比率が高かったような・・・ 夕方にはアッザアーンが街中に響き渡っていました。
でも、不景気なのはマケドニアも一緒・・・ ブルガリアよりももっと深刻な失業率なんだそうです。町のはずれのほうにはどちら側にも閉鎖された工場、そしてショッピング街には空店舗。経済状況はきびしそう。
そしてふと外を見ると山の上にくっきりと電飾された十字架・・・ 「あれ何?」と尋ねると、
「アルバニア系住民との抗争でたくさん人が亡くなったでしょう・・・ その記念碑なのよ・・・」
そうでした。マケドニアではそんな大きな苦しみを近年経験したんでした。そして1963年の大地震で壊れた旧スコピエ中央駅。ッてことは、今のスコピエの町並みは復興されたあとのものってことか・・・ う~む、何とも感慨深いものが・・・
ソフィアやペルニックを車で走ると、なんだか「内戦の痕跡」みたいなボロボロな家や工場跡地が広がってます。でも、共産体制が崩壊したときも、そしてそれからも全然民族紛争や内戦なんかなくて平和的に体制移行したので、これらの廃墟はただ荒廃して朽ち果てて放っておかれているだけ・・・ いつも「ランボー」のロケ地みたいです。こういう「ワイルド」な感じが、ブルガリア人の好みなのかな?
やはりマケドニアの経済も未だに苦しいのですね。まあ、しかしマケドニア人も、アルバニア人達と同じで、ユーゴの時代から、西欧とか、豪州などに出稼ぎして稼いできたので、国内経済が悪いと言っても、意外に人々はそれ以上の消費をしています。
旧市街で人々がアルバニア語をしゃべっているし、市場でも野菜を売っている人の多くがアルバニア人なので、スコピエは本当にソフィアとは雰囲気が違います。もっとも、カルジャリ市では、トルコ系の天下というか、やはり本当に異文化体験的な面があり、面白いですよ。日本人は結構歓迎されます。小生はモスク内を見学させていただき、トルコ系の長老とブル語でしゃべれました(妻と一緒にモスクに入れてくれました)。
マケ人はユーゴ時代に「反ブルガリア歴史教育」を詰め込まれているので、ブル人がマケの悪口を言うのと同じか、それ以上に、反ブル感情を見せることが多く、ブル語で仕事をしたい小生は、困ることも多かったです。まあ、場面におうじて英語で仕事しましたが。
アザーンが大音声で、拡声器で町中に流されるので、キリスト教徒達は、怒っていましたが、未だにそれがスコピエ市内全体に鳴り響いていましたか。アルバニア人と共存しなければならないマケドニア人の心境=恐怖心も、同情に値する面もあるのです。