新年好日、千曲市の、地元では八幡のおはちまんさんと親しまれている武水別神社(たけみずわけじんじゃ)に参拝しました。『日本三代実録』には、清和天皇の貞観8年に信濃國 無位 武水別神に從二位を授けると記されています。後の養和1年(1181)6月、木曽義仲が越後の城資職(じょうのすけもち)を討伐するため、平家軍の偵察を楯親忠(たてちかただ)に命じました。親忠は25日、八幡社を参拝し、「南無八幡大菩薩、我が君の先祖が崇める霊神、願わくば、木曾殿の今度の戦に勝事を得しめ給へ」と祈願しています(『源平盛衰記』横田河原の戦い)。
さらに後の弘治3年(1557)1月20日、越後の長尾景虎(上杉謙信)は、八幡宮に祈願して、「武田晴信と号する侫臣(ねいしん・悪人)がおり、信州に乱入して、信州の武士をことごとく滅亡させ、神社仏閣をも破壊し、民の苦しみは幾年も続いています。信濃を助け、国を守るために私は戦います。」(『古代古案』)と、願文を献じて必勝祈願をしました。さらに、永禄7年(1564)の塩崎の対陣では、8月1日、八幡宮に長い願文を納めて、信玄の滅亡を祈っています。「武田晴信が父を追放したのは、鳥獣にも劣る悪行です。また戸隠・飯縄・小菅・善光寺らの神領、寺領をとりあげ、社寺を衰えさせ、人民を苦しめました。」(『上杉年譜』)と述べ、自分が信濃に兵を出すのは決して信濃が欲しいからではなく、小笠原・村上など、信濃諸士の憤りを晴らすためと強調しています。
もっとも、信玄も神仏を信仰する人であったため、当時勢力下にあった八幡宮に戦勝祈願の願文を献じていたはずです。あちこちから祈願されて、さぞや神様も困ったことでしょう。心がふたつに割れてしまうのは、人間だけではないのかもしれません。
参拝後は、精進落としを兼ねて稲荷山の老舗『つる忠』へ。盛り蕎麦をいただきました。その後、姥捨山上にある国道403号線の信玄が第四次川中島合戦の時に茶臼山布陣の際に越えたという伝説の猿ケ馬場峠手前の展望台から善光寺平の大展望を堪能しました。眼下は田毎の月で有名な姥捨の棚田。
さらに下には更級、埴科の里と千曲川の流れ。有明山から五里ケ峰の奥には、安藤(歌川)広重が江戸時代後期に描いた浮世絵『信濃 更科田毎月 鏡台山』で有名な鏡台山と、百名山のひとつ、四阿山。鏡台山からは左手に、武田別働隊が越えたという伝説の戸神山脈が続き、その先端には上杉謙信が本陣としたという伝説のある斎場山がそびえています。そして、その左手に広がる広大な善光寺平。どの季節に来ても雄大なパノラマが堪能できますが、特に空気の澄み切った冬は、遠望がきくのでおすすめです。この日は、志賀高原の草津白根山はもちろん、なんと新潟の苗場山まで見えていました。
この大パノラマ写真は、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】の大峯山の最後でご覧いただけます。
川中島合戦と古代科野の国の重要な史蹟としての斎場山については、私の研究ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をご覧ください。