サクラや菜の花は、本当に深く人間を愛してくれるので、におやかにもやさしく、美しい。キクやスミレは、人間に少し厳しいこともいうので、美しさの中にも、きりりとした厳しさがある。それぞれに、人里に咲く花は、人間に深い思いを抱いています。
けれども、エンドウは、どうでしょう。写真に撮っても、いつも別にどうということはないという顔で、写ります。そばをとおっても、特にいい顔をするでもなく、挨拶をしてくれるでもない。人間に対する気持ちは、とても淡白だという感じです。
それはなぜかというと、エンドウなどの、マメ科の植物は、人間の食料となるということで、多大な貢献をしているからです。要するに、マメの仕事は、愛することよりも、与えること。それはすなわち、とても大切で厳しい任務を負うているということなのです。
だから、人間を見ても、特別な気持ちは抱かないような顔をしています。これは、食用とならない、カラスノエンドウやミモザなどにも、共通しています。
弱肉強食、適者生存の世界で、食べ物となる生き物をやっていくということは、どういうことなのでしょう。大変なことでしょう。それでも彼らはやっている。やらねばならないから。
けれども、ときに、エンドウも、とても美しい顔を見せてくれることがあります。それは、自分と同じように、耐え難いことも耐えて、みなのために真剣に何かをやろうとしている人間を見るとき。
こいつは、それを耐えるのか。と、目を開いて、まっすぐに見ている。
食べ物となることを、使命として生きるものは、すべてを愛の中に投げて、死んでいかねばならない。それは、きっと、人間には想像もできない、愛の痛みに生きねばならないということだ。
なぜそうするのか。それはただ、「やらねばならないから」。それはなぜなのか。馬鹿だから? いいや。それが、わたしだから。
エンドウには、それができるのだ。だから、やるのだ。
エンドウが、美しい瞳で人を見返すとき、その人は本当の自分自身で、自らを生きている、ということなのでしょう。