司馬牛、君子を問う。子曰く、「君子は憂えず懼れず」。曰く、「憂えず懼れず、すなわちこれを君子と謂うか」。子曰く、「内に省みて疚しからずんば、それ何をか憂え、何をか懼れん」。(顔淵)
司馬牛が、君子について質問した。先生はおっしゃった。「君子は憂えることも懼れることもない」。「憂うことも懼れることもない。それで君子といえるのですか」。「自分の心を省みて、間違っていないとわかれば、なぜ憂えたり懼れたりすることがあろう」。
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画像の花は、マツバウンランです。近所の空き地で見つけました。かわいいでしょう。入学式のときの写真は、この仲間の園芸品種で、別名をヒメキンギョソウというそうです。なんだかぴったりですね。
昨日は、少し車で遠くまでいって、黄色いタンポポの写真を撮りにいってきました。先日、山桜を見にいったおりに、空き地のすみに咲いていたひと群れの関西タンポポを、チェックしておいたのです。しばらくぶりに行ってみると、タンポポは空き地じゅうに広がって咲いていました。うれしくて何枚も写真を撮ったのですが、どの写真も、こわばって苦しそうな顔で写ります。なので、とても紹介できません。今年のタンポポは、悲しいな。こんな春もあるのですね。
そのかわり、ほかの花々が、いつもより、とてもきれいに咲いてくれている。まるで、タンポポの悲しみを、いたわってくれているかのように。
タンポポが、悲しいのは、心からの愛で、すべてをほめたたえていたのに、それを、だれかに、辱められたからです。だれかが、タンポポに、おまえなんか、すべて馬鹿だといったのです。それが、タンポポは、あまりに悲しかったのです。
タンポポの仕事は、春に、すべての創造をほめたたえて、喜ぶこと。それで、すべてのものがうれしくなって、はりきっていろんなことをやりはじめる。タンポポはみんなが、うれしそうに自分の好きなことを、元気いっぱいにやっているのを見るのがすき。だからいつも、みんなをほめていたのです。いいなあ、いいなあ、みんないいなあ、元気いっぱいだね、すごいね。
真っ正直な心で、輝く心で、タンポポが言ってくれていたから、みんな、春がとても、うきうきと楽しかったのです。
でも、今年のタンポポは、咲くのがとても苦しそうだ。みんなのことを、好きだというのが、とても苦しそうだ。だれかに、ひどいことをいわれてしまったから。
そのだれかは、なぜタンポポを傷つけるようなことを、言ったでしょう。それはその人が、とても深く傷ついていたからです。言い知れぬ深い嘘に染まった自分が、厭わしく苦しく、そのために、麗しいことをまっすぐに言えるタンポポの、かわいい心を、激しく憎んだのです。
内部に嘘をかかえている人の心は苦しい。間違っていることを正しいことにするために、あらゆる技術を弄する。見事に嘘がばれても、それが一切嘘だとするために、あらゆる創造を馬鹿にする。
すべてのことは、まったく馬鹿馬鹿しいことだ。なんでもない、おろかな無駄というものだ。だから、それがわかっているおれが、一番かしこいのだ。
タンポポを憎んだものは、あまりに苦しかったのです。怖かったのです。タンポポが美しいことが。タンポポの美しさを見れば、これまで自分のやってきたことが、すべて間違いだったとわかるからです。
正しいことをしているものは、だれかを苦しめたり傷つけたりする必要はない。悲しいことも怖いこともない。ただそこにあって、自らの愛を歌うだけで幸せだ。だから、そのままで、美しい。
悲しいのは、怖いのは、自分が、間違って、いるからです。だから、あらゆるものを、苦しめ、傷つけたがる。何もかもを、馬鹿にしなければ、おろかな自分が、あまりに惨めになるからです。
みなさん、道端やのっぱらで、タンポポを見かけたら、どうか声をかけてください。ありがとう、あなたはすばらしい、美しい花だと、心から言ってください。
悲しむことなんて、怖がることなんてないよ。だってあなたは、ほんとうにいいことをしてくれる。だから大好きなんだと。
タンポポが笑ってくれない春なんて、もう二度と来ないように。