初夏になると、野山にも人里にも、咲き乱れる花。画像は、サツキツツジかな。華やかな園芸品種もよいですが、これは小さくてかわいらしくて、とても好きです。
美しい花ですが、カメラを向けても、めったによい顔をしてくれません。こわばったような、きつく内に閉じこもったような顔で、ほとんど何も話してはくれないのです。ツツジは、本当は、人里にいることは、とても苦しいのです。本当は、だれもいない山奥の、清らかな流れのそばなどで、ひっそりと咲いているのが、いいのです。
けれども、こうして、たくさんの花が、人里に咲き乱れているのは、人間が、ツツジを、愛してくれるからです。人間は、苦しい。激しく、病んでいる。その痛みを、常に叫んでいる。その人間たちの苦しみを、ツツジは、自分の奥の、もっとも柔らかなところで、感じすぎてしまうのです。
だからツツジは、燃えるように激しい色と光で、咲き乱れてしまうのです。なにもかもが苦しい、苦しい、苦しい、あまりにも痛い。だから、咲いてしまう、咲いてしまう。胸の奥の最も痛いところから、あふれ、こぼれ出てくるものを、とめられないかのように、咲いてしまう。
あらゆる、あらゆる、痛みを、激しい色で、埋め尽くしてしまいたいかのように、咲く。彼女たちは、無言のままに、泣き叫んでいる。
五月に咲き乱れるこの花が、ときに暑苦しいほどに美しいのは、この世界が激しく苦しすぎるからです。そして人間が、この花を愛するのは、人間の魂の宿業的な病の芯を、痛く刺激するからです。
ツツジは、山奥にいたほうが、幸せだ。けれども、人間を忘れることも、できない。なぜなら彼女たちは、倒れているものに駆け寄っていかずにはいられないほど、やさしい花だからです。