ある街角の、あるアパートの一室で、白い卵型の顔に、黒髪を丁寧に整えた一人の若者が、わきにスケッチブックを抱え、画材を入れたカバンを手に持って、上着の襟を整えながら、ひゅう、と口を鳴らしました。彼はこれから外に出かけ、近くの公園に向かい、噴水を囲む木々の風景をスケッチすることにしていました。
外に出ると、空は気持ちよく晴れて、風は春の薫りを運んできました。若者は、いろいろと苦労はあるが、人生はそれほど悪いものではないな、と思っていました。やれば、なんとかなるものなんだ。希望はある。つまずきはあっても、それほど運が悪いわけじゃない。チャンスはやってくるものさ。彼は一冊のスケッチブックに、将来への夢をこめて、明かるい舗道を公園に向かって歩きはじめました。
歩いているうちに、彼はふと何気ない舗道のでこぼこにつまずき、おっと、と言いながら倒れかけました。そのとき、彼はいきなりめまいを感じ、風景がぐらりとゆらついたような気がしました。しかし、すぐに気分を取り戻し、体勢を整えました。どうした?昨日の寝不足がたたったかな。彼はそう思いながら、また歩きだそうとしました。すると、目の前に、灰色の上着に黒いズボンをはいて、スケッチブックとカバンを持って歩いていく男の後ろ姿が見えました。彼は、あれ?と声をあげました。あれは、おれじゃないか。なぜおれが、あそこを歩いているんだ?…いや待てよ。おれはここにいる。じゃあ、あれは、誰なんだ?
彼は、その後ろ姿を追いかけ、「おい」と声をかけました。すると男は彼を振り向き、彼そっくりの顔で、目を光らせながら、にやり、と彼に笑いかけると、そのまままた前を向き、行ってしまいました。彼はそれを追いかけようとしましたが、なぜかもう、そこから一歩も進むことができませんでした。
な、なんなんだ、なんなんだ、一体……。彼が茫然として、もう一人の自分の姿が、角を曲がって消えていくのを見送ったその時でした。どこからか、彼の名を呼ぶ声がし、ガシャン、ガシャン、と音がして、彼の周りを透明なガラスの壁が囲み、一瞬のうちに彼は立方体のガラスの檻の中に閉じ込められました。「愚か者よ」その声は言いました。「思い出せ。あなたは生まれる前、怪と契約した。今度の自分の人生をやるから、自分に最高の幸福を与えよと。あなたはこれから、その結果をその目で見なければならない」。
その言葉に、男は、はっとしました。ああ、そうだ!確かにおれはそうした。生まれる前、あのでっかい怪に会いに行った!生まれるたび、何をやってもいつも失敗して、結局は不幸なことになって死んでしまうから、今度こそこの地球で、決して壊れることのない大きな幸福を手に入れたかったのだ。でも、これはちがう。これはちがう。あれはおれじゃない。あれは、おれが生きているんじゃない!
また誰かの声がして、ガラスの檻の中に響きました。
「あなたは怪に人生を売った。だからこれからはあの怪があなたを生きていく。しかし彼がやったことは、神の道理によって、あなた自身がやったこととして計算される。あなたはもう何もすることはできない。彼はあなた自身をあなたとして勝手に生き、その人生を栄光へと導くことだろう。あらゆる敵を打ち破り、勝利していくだろう。それはすべて、あなたがやったことになる。見るがよい」
すると、ガラスの檻の壁に、ちらちらと光る数字の並んだ細長い長方形のメーターが現れました。そのメーターを見て、彼は目を見開きました。なんだこれは!
「愚か者よ」とまた声は言いました。「そのメーターの数値はあなたの罪の量を表す。あなたは怪があなたとしてこの地上で生きている間、そのガラスの檻の中から、全てを見ていなければならない」。
彼はちらちらと光りながらゆっくりと数値をあげていくメーターを見ながら、ガラスの檻をたたき、そこから出ようともがきました。しかしどんなに叩いてもガラスの壁は決して割れることはなく、彼の懸命の拳や蹴りを何倍もの力で跳ね返しました。彼はおろおろとしながら、檻の真ん中に立ちつくし、周囲を見回しました。早回しの映像のように、時はどんどんと進み、一瞬にして風景が変わり、彼は自分を生きている怪が、兵として軍に従事し、憎しみに燃えながら銃を打ち、何人もの敵を殺しているのを見ました。
「まさか、まさか、まさか、なんでなんだ。おれは、絵を描きたいんだ。兵隊になんかなりたくない。絵を描きたいんだ!」
彼は壁のメーターを見ました。すると前見たときよりも一段とその数値は上がっていました。ガラスの向こうの自分が銃を打つたび、数値はカチカチと音を立てて変わり、だんだんと増えていきました。「ちがう!おれがやったんじゃない!あれは断じておれじゃない!」彼は叫びました。しかし答える声はなく、ただ数を数えるメーターの音だけが響きました。
風景はまた変わり、彼を演じている怪は、病院の中にいました。彼はひとときそこで、戦いで得た体の傷を癒していました。ガラスの中の男はほっと息をつき、病室のベッドに横たわっている男に向かって叫びました。
「もうやめろ!もういい!あの契約はなしだ!おれにおれを返せ!おれがおれを生きる!返してくれ、返してくれ、おれの人生を!」
しかしその声は、ガラスの向こうの男に聞こえることはありませんでした。ガラスの中の男は、ベッドの上の男に、無数のムカデがとりついて、人形のように彼の体を操り、何事かを看護婦に語っているのを見つめていました。その話を聞いて、看護婦は目を見開きながら驚いていました。この人は普通じゃないわ、と看護婦は心の中で思い、恐れを抱いていました。
「ああ、ああ……」彼はあえぎながら力なく膝をつき、ガラスの壁を叩きながら、嗚咽をあげて泣き始めました。「出してくれえ、出してくれ!あれは、おれじゃない!おれが、あんなことを言うはずがない!」
しかし、誰も答えるものはいませんでした。
時がすぎました。しばらくの間、ガラスの檻の中に横たわり、ぼんやりと怪が生きる自分の人生を見守っていた彼は、ある時、彼が政治家になるために選挙に立候補し、人々に向かって高らかな声で演説をしているのを見ました。彼はその演説を聞き、もうたまらないというように、ガラスにすがりつき、言いました。ああ…、おれだ、おれが、おれがやっている。あんなことを、あんなことをやっている。メーターがカチカチと音を鳴らし、数値をあげていくのを、彼は振り向くこともなく、聞いていました。
民衆は彼の力ある演説の言葉に心ひかれ、彼は絶大な支持を得て、政治家としての道を歩み始め、だんだんと大きな権力を得てゆきました。
彼はやがて、大きくとても立派な家に住みました。家政婦をやとい、自分の世話をさせました。庭師もやとい、自分の好きな木や花を庭に植えさせ、暇なときにはそれを眺めて楽しみました。食べるものもたいそういいものになりました。異国から呼び寄せた調理人に、見たこともないような凝った料理を作らせ、彼はいかにもそれをうまそうに食べ、次第に太ってゆきました。
そして、地球の空を、暗雲が襲いました。姿の見えぬ怪が、神のまなざしを巧みによけたつもりで、人々の耳に地獄が来ることをささやきました。戦争でした。人々は互いに互いを妬み、憎み、殺し合いを始めました。そのとき、ガラスの向こうの自分は、もう国の最高の地位にいました。まさに、彼が生まれる前の夢に描いた通り、それはあたかも、最高の幸福のように見えました。誰もが彼の言葉に従い、人形のように彼に操られ、次々と戦場に向かい、惨い殺戮を行っていきました。
ガラスの中の男は、もう口をきくこともできず、ただ、メーターの数値が上がっていくのを、見ていました。数値はどんどんと跳ね上がり、やがてそのメーターでは計りきれなくなり、ボン、と破裂して消えたかと思うと、今度はもっと大きな数値を測れる新しいメーターが現れ、また数値をカチカチと打ち始めました。ガラスの中の男は、ひ、とひきつって笑い、よろよろとひざをついて頭を振りました。まさか、うそだ、こんなこと。おれはやってない、ここまでひどいことは、やってない…。できるはずが、ない……。
彼はガラスの外から、がりがりと言う猛烈な音が響いてくるのを聞いて、振り向きました。するとそこでは、鉄色の怪物のような戦車隊が、ある村を襲い、家々をひきつぶし、逃げまどう人々を追って砲撃を繰り返していました。村のそこここに、血にまみれ、体をつぶされた惨い死体がるいるいと横たわっていました。戦車は逃げる人々をどこまでも追いかけ、彼らが死に絶えるまで、攻撃をやめませんでした。
ふと風景が変わり、彼は、輝く紋章を描いた大きな旗の下で、自分が雄々しく手を挙げて、大勢の民衆のたたえる言葉に答えている風景を見ていました。彼は今や、独裁者でした。民衆の間を、怪が飛びまわり、彼らの脳を奪い、人々を群衆の暗黒の怪物へと変えてゆきました。人々の拍手に迎えられ、彼は大げさに手を振りながら、国の栄光を語り、自分たちが神とともにあると語り、だれも自分たちを負かすことはできない。われわれこそが、神に選ばれた人間だと叫びました。人々は狂気の中でそれを信じ込み、まっすぐに、彼の導く道を迷うことなく進んでいきました。
虐殺が行われました。彼らは、自分らとは違う、卑しく、正しくない、選ばれなかった人々を、次々に、生きていても意味もないからと殺していきました。人々は、それぞれに、人間が考えられる限りの惨いやり方で、いとも簡単に、殺されていきました。
ある者は、鉄のとげの生えた重い板に挟まれ、ある者は毒をまぜられた水の中に裸で放り込まれ、またある者は生きたまま薪と一緒に巨大なかまどに放り込まれて焼かれました。人の腕をちぎり、足をちぎり、目をつぶし、皮をはぎ、これほどひどいことをできるのかと、神も驚くほどのことを、人々は平気で、いとも簡単に、それほど変わったことでもないというように、やっていきました。
全ては、彼の命令で行われたことでした。ガラスの中で、彼は、信じられないという顔をしながらただ茫然とそれを見ていました。「神よ」彼はガラスの中にひざまずき、懸命に祈り、助けを請いました。「悔い改めます。まちがっていました。わたしは、まちがっていました。ゆるして、ゆるしてください……」しかし今更、何を言おうと無駄でした。
ガラスの向こうの彼は、一層栄光の上に登り、まさに新たに進化を遂げた真の人間として民衆の前に現れ、民衆の信仰を一身に浴びていました。彼は紋章の下、凛々しくも美しい衣装を身につけ、手を挙げて民衆の喜びに答えながら、新たな神のお告げを彼らに叫びました。
「人々よ!神はわたしに告げられた。殺せ。我々以外のものは、全て殺せ!なぜなら彼らは、神の導きによる進化の道からこぼれた、人類の失格者だからだ!」
メーターの数値が、跳ね上がりました。ガラスの中の男は、もう、耐えられませんでした。ガラスの壁を、手が砕けてもいいというほど何度も何度も、叩き、叩き、全身を切り裂かんばかりの声で、叫びました。
「やめろ! アドルフ!!!」