日の都の片隅に、大きなガラスの温室を備えた植物園があり、そこを、ひとりの女性が管理していました。温室には、地球上の熱帯や温帯や寒帯などに棲む植物が、何の不思議もないという顔で自然に肩を並べて咲いたり、薫ったり、葉や枝を伸ばしたりしていました。女性は日照界の水色の制服を身につけ、黒髪を長くたらし、切れ長の細い瞼の奥には、まっすぐに澄んだ美しい茶色の瞳を隠していました。
彼女は植物の霊たちをとても愛していましたが、中でも一番好きなのは、イネでした。なぜなら彼らは、常に愛をもって、自分の全てを与えるために地上に生きているからでした。彼女は日々、イネと語り合い、己自身を与えるという愛の痛みと喜びを、胸に深く吸い込み、魂に歓喜を覚えながら、学んでいました。
ある日、そこを、ひとりの人間の若者が、訪れました。彼は、地上で生きていたとき、一人の芸術家でした。彼はとても優れた才能を持ち、純粋に正しいことを信じていて、地上でまっすぐに絵画の道に励んでいました。しかし、その才能と美しさを怪や周りの人たちに妬まれ、彼は様々な惨いいじめに会い、結局最後は皆に馬鹿者とののしられて見捨てられ、酒と薬に溺れたあげく、何枚かの理想の女性像を地上に残して、孤独に死んでしまいました。
彼のような目にあった人々は、死後、よく自分をいじめた人々に復讐してしまい、その罪によって月の世に向かう者もいるのですが、彼はそうはせず、自分をいじめ殺した人々を恨まずに許したため、日照界の門をくぐりました。そして、日の都にある芸術の学校に通いながら、再び地上で生まれる日のために、日々学んで過ごしていました。
若者は、おずおずと温室の扉をくぐると、中にいる女性に挨拶をし、いつものようにスケッチブックを出して、彼女に絵を描かせてくれと、頼みました。女性は、戸惑いつつも微笑み、「いいですよ」と答えました。すると若者は大喜びで、温室の片隅に座り、スケッチブックに鉛筆を走らせながら、言いました。
「あ、いいです、ポーズはとらないで。自然に動いていてください。僕が勝手に描いていますから」若者は、幸福に満ちた素直な瞳で、温室の中で働く彼女の姿を追い、次々に、何枚も、彼女の顔や、何気ないしぐさや、イネに触れるときのやわらかな指先などを、描いていきました。
若者は、この日照界の女性に、恋をしていました。彼女にも、それはわかっていました。彼女は、人間の素直な恋心を、優しく受け止めながらも、心の中には、少し戸惑いを感じていました。彼が、彼女を見て、思わず感動のため息をつくときなど、どうしていいかわからず、思わず植物たちにふれようとする手が固まってしまいました。
罪びとの心を導くことも難しいことですが、人間の、素直な愛の心に触れていくことも、苦しいことでありました。彼女は、彼のために、自分を無いことにして、全てを与えねばなりませんでした。なぜなら彼が見ているのは、まだ、本当の彼女自身ではなく、彼女の向こうに見ている、女神のように美しい理想の女性像であったからです。
スケッチブックに十何枚かの素描を仕上げたあと、若者は、まだ幼さは感じるものの変わらぬ素直な明るい目をして彼女に近づき、仕上げた絵のいくつかを見せました。スケッチブックの中には、彼女が思いもしなかった、髪のかすかな乱れや、ほんのりとしたほほえみや、何かに驚いたときの瞳などが、とても豊かな技で、見事に描かれていました。女性はしばしそれを見ると、本当に、見事ですね、と素直に喜び、「ありがとう、いつも美しく描いてくださって」とお礼を言いました。若者は恐縮しながら、言いました。「これをもとにして、今度は油絵の完成作品を描いて持ってきます。すばらしい霊感を得ることができました。神とあなたのおかげです。絵が完成したら、ぜひ見てください」女性は微笑みつつ、ええ、もちろん、と答えました。若者は相変わらず、嬉しさを満面に表して、温室を去っていくまで彼女の顔からずっと目を離さずにいました。
若者が去っていくと、女性は微笑みを変えることはなくも、少し疲れを覚え、イネの元を訪れて、癒しを求めました。イネは、ほほ、と笑い、やさしく言いました。「あれでいいのですよ。あの若者は、あなたを困らせるようなことは決してしませんから」すると女性はあごに指をふれながら、目に悩みの色を見せて言いました。「わかっているの。でもむずかしいわ。男性の心って、時々、どうしていいかわからないくらい、わたしを悩ませるの。彼らはとても純粋で、深くわたしたちを愛してくれるけれど、ほんとうはどこかが違うってことを、わかっている人は少ないのだもの」「彼は、そんなに愚かではありませんよ。人間は確かにまだ若いけれど、彼は、適切な場所で、間違っていることは間違っていると、ちゃんと言える人です。あんな若者がいることが、人類の未来を本当に明るくさせるでしょう。あなたは何も悩むことはありません。あなたは、ただ、あなたでいればいいのです。そうしたら彼は、あなたから勝手に何かを得て、自らを創造してゆきます。男性が女性に求めているものは、ほんのごく簡単なことですよ。ただ、自らとして、ほほえんでいればいいのです」イネはやさしく言いました。
そして日照界の女性は、再び、日常の仕事に戻ってゆきました。彼女は温室の植物の霊たちと、日々、人間たちのことについて語り合いました。ある熱帯の森の野生蘭は、強く人間を批判しました。彼らの地球上でのものを知らなすぎることや、驕りたかぶっていることを見ていると、自分の方が恥ずかしくてたまらないと、彼は言いました。彼女は彼と語り合い、人間はまだ若くて学んでいる途中なのだと言いました。白い頂を抱く高山に棲むある黄金色の小さな花は、いつもため息をつき、人間が風を汚しすぎると嘆いていました。彼女は、本当にそうねと、相槌を打ちながら、どうにかしていかなければと、花と同じため息をつきました。温室の隅で、密かに咲いている薔薇は、彼女が話しかけると、少し困ったような微笑みを見せ、ただ静かに心を閉じて、何も言おうとはしませんでした。彼女は薔薇の心に触れると、彼らの心の傷がどんなに深いかを感じ、悲哀に沈まざるを得ませんでした。
このようにして、彼女は毎日植物と語り合い、彼らから得た人間に関する情報や感想などを記録してゆき、植物と人間のきずなを地球上でどうやって結んでゆけばいいかという課題に、日々取り組んでいるのでした。
あれからよほど日が経ったある日のこと、また突然、芸術家の若者が温室の彼女の元を訪れました。彼の手には、大きなカンヴァスが抱えられており、彼は相変わらず満面に喜びを表しながら彼女を見て、「できました!見てください!」と温室のガラスに響く声をあげました。彼はあれから少し日焼けして、肩のあたりの筋肉が増えていました。それは彼が、彼女の絵を描くために、上質の絵の具を手に入れようと、どこかで労働奉仕をしてきたからでした。日照界の女性は、微笑みを変えず、戸惑いを隠しながら彼の心を受け入れ、温室の隅に立てかけられたカンヴァスの絵に、見入りました。
そこには、澄んだ茶色の瞳に、イネの緑を映しこんで微笑む、美しい黒髪の女の姿が描かれていました。彼女は白い指をイネのまっすぐな緑の葉の中に差し込み、熱い憧れの色を表情に表して、ひたすらまっすぐに、何かを追いかけているようにイネを見つめていました。それを見た女性は驚いて、はあ、と思わず感動の声をあげました。
「すばらしいわ」と彼女は言いました。…ここまで、この人は、わたしを見ていたんだわ。彼女は、若者の才能と思わぬ魂の進歩に驚いていました。そう、わたしはいつも、こんな風に、イネに憧れている。確かに、イネのようになりたいと願っている。彼はそれを見抜いていたのだわ。なんてこと。わかってなかったのは、わたしのほうだったのね。彼がわたしに恋するのは、ああ、わたしが、イネを愛しているからなのだわ!
彼女は胸の感動を隠すこともなく、歓喜の心でしばしの間ずっと絵に見入っていました。そんな彼女の顔を、若者もまた、嬉しげに見ていました。やがて彼女は言いました。
「ありがとう、わたしを描いてくださって。とても、うれしいわ。わたしはいつも、こんな風に、イネを見ているのね」
「はい、それは美しく、愛に満ちた目で。僕はそれが嬉しくてたまらないんだ。こんな女性がいるんだって、嬉しくてたまらないんだ。それを表現してみたい。いっぱい描いてみたい。また地上に生まれることができたら、今度こそ、女性の本当の美しさを、地球上で表現してみたいのです」若者は、熱い心で彼女に語りかけました。日照界の女性は、男性の熱い心に触れると、まるで神に触れたかのように一瞬おののき、身の縮むような怖さを少し感じました。彼女は何かに揺れ動こうとする自分の心を律し、しばし自分を離れたところから見て、観察しました。そう、女性とは、こうして男性を愛してしまうものなのかしら。彼女は、自分の胸の中に、エロスが発した矢の傷のような痛みがあるのを、確かに感じました。彼女はその痛みを実感し、そこから魂を揺すぶる何か熱いものが動き出すのを感じていました。これが、恋というものなのかしら?
若者と女性は、絵を前にしながら、何も言わず、ただふたりでいることに、不思議な熱い幸福を感じていました。すると、突然神は、ふたりに何の予感も与えることなく、無理やりその魂を一つの器の中に入れて溶かしていまいました。あまりのことに、ふたりは茫然としました。女性は、今自分に熱く注がれている若者の視線に、全身を抱きしめられ、どうしてもそれにあらがえない自分の弱さに驚いていました。なぜこんなことがあるのか。なんという快楽。なんという苦しみ。一体なぜこんなにも、男と女は、恋の中に溶けあってしまうのか。わからない。でもここにふたりでいると、それだけで、もう他に何も見えなくなってしまうほど、あなたを、あなただけを、求めてしまうのだ。神様、わたしたちに、一体何をお与えになったのですか?若者は震えながら涙を流し、女性の横顔をひたすら見つめながら、自分を突き動かそうとする何かに必死に耐えていました。
やがて、温室の植物たちが、いつまでもふたりに浸っている彼らに、そっと声をかけました。もうそろそろ、お時間ですよ、おふたりさん。するとふたりは、はっと現実に戻り、同時に後ろを向いて、ずっと植物たちに見られていたことに気づいて、恥じらいの苦笑いを見せつつ、ほっと安堵の息をつきました。
「また、絵を描かせてもらっても、いいですか」若者は、カンヴァスを抱えながら、日照界の女性に言いました。「ええ、わたしでいいのなら」と女性は笑って答えました。
日照界の女性は、カンヴァスを持った若者が、手を振りながら去ってゆくのを、温室の入り口から見送りました。そして彼の姿が消えて見えなくなると、つかの間の恋の美酒の香りに少しの間ゆらめき、すっと背筋を伸ばして天を見上げ、神に祈り、すぐに平常の自分に戻しました。彼女はイネの元を訪れ、言いました。
「どうしよう、わたし、彼を好きになってしまったわ」するとイネはまた、ほほ、と笑い、「それはそれは。お気をつけあそばせ。恋とは、まことに苦しいものですよ」と言いました。
女性は、何かがおかしくてたまらぬというように白い歯を見せてイネに笑いかけ、今日起こった美しい出来事を思い返しては、ほおっとため息をつき、秘密の記憶の詩の中に、それを深く織り込んでゆこうと、思いました。