とぅ、おぅ…、なんということだ、神よ、なんということだ。
ひとりの若い上部人が、嘆きながら、天を見あげつつ、一筋の道を歩いていた。空は藍色だった。月は百合のように白く澄んでいた。行く手には、こんもりと青く広がる、胡桃の森があった。道は蛇が吸い込まれるように、その森に向かって細く伸びていた。上部人は、足元を少しふらつかせながら、その森の中に入っていった。とたんに、目に涙があふれ、足が萎えるように彼はそこに座り込んだ。悲哀が、重い石のように彼の胸の底に沈んでいた。それをどうにかしなければ、次の段階に踏み込めないほど、今の彼は傷ついていた。癒しを必要としていた。だから彼は、この森に来たのだ。
彼はしばし、森の隅にある一本の胡桃の木の幹にもたれ、座り込んだまま、動かなかった。頭の奥に、ほんのさっきまで見てきた地獄の風景がよみがえった。涙は止まらなかった。
夜だった。戦闘機が、蝿のように空を飛んでいた。火の雨が降った。町が、焼けていた。人々が焼けていた。魂が割れ叫んでいた。血が、ほとばしる泉のようにあちこちから噴きあがった。骨はがれきの中に砕けて散らばった。嵐のような悲哀が起こり、怨念と呪いの毒を生む苦悩が巨大な獣のように、黒くうごめき始めていた。
戦争だった。ある町を、空襲が襲ったのだった。彼は、数十人の青年と少年たちを率いて、その処理をするために、その町に向かったのだった。そして、すべての凄惨な出来事をその目で見、そこで起こったすべての暗黒の苦悩をなんとか浄化するための、最初の段階の仕事をしてきたのだった。
青年たち、少年たちは、破裂する爆音と炎の中を飛び回り、死んでゆく人々の魂を次々と導いては、彼らが怨念の黒沼に魂を沈める前に、月の世や日照界につれて行った。あまりにも悲惨な死に方をした人間の魂は、そのまま放っておいては、呪いの毒に犯され、いかにも簡単に怪に落ち、それからどんな害を世界にもたらすかわからないからだ。青年たちは、癒しと慰めと愛の歌を歌いながら、死んだ人の魂の怒りをひととき鎮め、悲哀を麻痺させると、行儀よく整列させ、死後の世界へと導いていった。若い上部人は、準聖者の姿を取り、彼らの指揮をとっていた。
戦闘機の群れが、轟音を響かせて去っていった。炎は町を焼き続けたが、一夜明けた時、それはようやくおさまりはじめた。所々で、大蛇が舌を出すように炎はひらめいたが、それもやがては風に消えた。燠火は炭になって崩れた家々の柱や鴨居の中で蛍のように静かに点滅した。生き残った人々の恨みと苦悩のうめきが風を泥のように染めた。町は焼きつくされた。残ったものはほとんどなかった。青年、少年たちは働き続け、苦悶の中に死にゆく人々の魂を導き続けた。それと同時に、愛の歌を歌い、大地の悲しみを癒そうとした。神が、上空ですべてをごらんになっていた。皆が涙を流していた。準聖者も泣いていた。
そのようにして、何日が過ぎたか。ようやく、焼け野原が落ち着きを取り戻し、生き残った人々が、心に傷を抱きながら、無理にでも自分を奮い立たせ、悲惨な現実を乗り越えようと、生きることに踏み込み始めたころ、準聖者は、青水晶の小杖を笛に変え、ひとつの長い呪曲を吹いた。美しい音律は焼け野原の上を流れる風を目に見えない青い光に染め、不思議な金の粉を町に振りまいた。少年たちが、豆真珠の粉を月光水にとかしたものを、生き残った人々の頭にすりつけていった。それは悲哀に沈む魂を少しぬくもらせる秘薬でもあった。
準聖者の吹く笛の音は、町中を、一定の法則の筋道を通って流れ、金の粉を繰り返し振りまき続けた。するといつしか、音律に青く染まった風の筋道に従って、焼け野原となった町の地の底から、青い百合の芽がちらちらと顔を出し始めた。もちろん、その百合は生きている人々の目には見えはしなかったが、百合は青い茎と葉を見る見るうちに伸ばし、一斉に白い花を咲かせ、町をまるごと囲んでしまうほどの、大きな白い紋章を大地に描いた。清らかに白い百合の花でできた、清めと鎮めの魔法の紋章であった。その紋章の効力で、凄惨な殺戮によって生じた大地の呪いと苦悩の黒い影を、何とかして清め、封じねばならなかった。そうせねば、大地の呪いは常に人々に復讐と攻撃を語りかけ、彼らの魂をもっと凄惨な殺戮の中に迷わせ、これから人々がここで生きていくことが、本当に苦しくなりすぎてしまうからだった。
紋章をすっかり描き終わると、準聖者は笛を口から離し、それを元の小杖に変え、紋章が完成したのをしっかりと目で確かめてから、深いため息を風に吐いた。これから、どういうことを、どれだけ長い間やっていかなければならないか、それが彼の心をしばし、暗くさせた。だが、やらねばならない。やらねば、ならない。そうせねば、人類の生が、地球が、とんでもないことになってしまうからだ。風が準聖者の頬を冷たく冷やし、それが涙でぬれていることを改めて教えた。彼は小杖を手に持ったまま、しばし何を考えることもできないほどの、痛い悲哀に打ちのめされた。だが、言葉と体は勝手に動いた。やらねばならない。彼は、青年、少年たちを導き、ただひたすら、惨い殺戮の後処理をやり続けた。それは、数か月ほども、かかった。
そのようにして、やっと事態が落ち着きを取り戻し始めたころ、準聖者は、あとを青年たちに任せ、ひととき、自分も安らうために、上部に戻ってきたのだった。
準聖者の姿から、元の上部人の姿に戻り、彼は自分の心を癒すために、この胡桃の森にやってきた。彼の受けた傷は、思ったよりもひどかった。あまりにも、苦しすぎた。彼は胡桃の幹にもたれながら、しばし、赤子のように泣いた。胸の奥にこもる悲哀が彼を重く苦しめた。彼は地に泣き伏し、叫んだ。「ひ、おゅ、ぬつ!」…人類よ、おまえたちは、おまえたちは、なんということを、したのか!
彼は地に伏したまま泣き続けた。すると、どこからか、ころん、という音が響いてきた。ころん、ころん、ころん…、その音はだんだんと増え、大きく響き、森を揺らし始めた。若い上部人は涙した顔をあげ、それを見た。胡桃の木に生っている無数の金の胡桃が、柔らかな光を放ちながら揺れ、鈴のような音を鳴らして、快い音楽を鳴らしているのだった。すべては、森の隅で泣いていた彼のために、胡桃の木がやっていることだった。その清らかな合奏は、彼の嘆きを優しく包み込んだ。そして、深い愛の言葉を語りかけた。若い上部人は、ふらりと立ち上がると、子供が母の姿を探して追うように、鈴の鳴る森の中を走り始めた。「あい、あい、あい」…わたしは、わたしは、ここにいる…。彼は言いながら、森の奥深くまで、走って行った。胸の中の悲哀が、走っていく彼の足に合わせて、石のように弾んだ。それは時折、彼の全身の骨に響くように痛んだが、森の深みに入って行くにつれ、少しずつ、その痛みはしずまってきた。やがて彼は、走ることに疲れ、ゆっくりと足をとめた。どこまできてしまったのかわからないほど、深く森に迷い込んでしまった。帰る道が、わからなくなった。でもそれでもよかった。森は、道は、生きているものだから、自分が求めさえすれば、いつでもそこから新しくできるものなのだ。
悲哀の石は、幾分小さくなっていた。彼は少しいつもの自分を取り戻し、静かに森を見回した。風に、胡桃の木はざわめき、彼に語りかけた。「いよ、てみ」…愛する人、悲しまないで。愛する人、苦しまないで。
上部人は、胡桃の木の枝に手をやり、その鈴の実を見上げながら、感謝した。あふぅ、と彼はつぶやくと、少し微笑みながら、ゆっくりと森の中を歩いた。ふと、どこからか、水の音が聞こえてきた。ほう、彼はつぶやきながら、その音のする方向を目指して、森を進み始めた。やがて、低く垂れさがった胡桃の木の枝の向こうに、一筋の清い川の流れが見えた。ほむ、と彼はつぶやき、胡桃の枝をくぐって、川のほとりまで来た。そして川辺に座り、その冷たい水に、手をくぐらせた。しびれるような冷気が全身をめぐり、痛くへこんだ魂の傷に、何か熱いものが塗られた。彼は神経に針がささるような痛みを一瞬感じ、ぅ、と言って、手を川の水からひっこめた。
百合の色をした白い月光が、川面を照らしていた。静かな時間が過ぎた。上部人は何も考えず、ただ微笑んで、川面にはねかえる月光に目を濡らしていた。喜びは、再び、かすかに蘇り始めていた。あい、と彼はまた言った。「ああ、わたしだ。わたしが、ここにいる」という意味だった。悲哀は消えなかったが、彼は幾分明るく微笑み、森を見あげた。そのときだった。
ふと、青い幕が、眼前に落ちた。胡桃の木の幹を、二十本も集めたほどの、太く青く長い足が一本、音を立てることもなく、目の前に静かに降りてきたのだ。上部人は、驚いて目を見張った。しん、という音がした。空気が驚いて、ガラスのように、固まった。風が、息を飲んだ。森が、凍りついたように黙り込んだ。
上部人は、おののきながらも、おそるおそる、上を見上げた。森の上高く、天に、とてつもなく大きな、青い鹿の、顔があった。鹿は、激しくも澄んだ瑠璃の瞳で、静かに、彼を見下ろしていた。その頭にある二本の角は、白い石英のように清らかに澄んで光り、優雅に曲がりながら複雑に枝分かれして伸び、そのてっぺんは月にも届きそうなほど、高かった。青い鹿は、一本の前足を、上部人の前に下ろし、ただ静かに彼を、見下ろしていた。
神であった。神が、いらっしゃったのだ。
上部人は、川のほとりに、ひれ伏した。そして「とぅい、とぅい」と繰り返した。神よ、神よ、神よ…
おお、ほおおおぅぅぅ…
神が、厳かに空に響く声で、おっしゃった。「… お こ な え …」と言う、意味だった。上部人は、あまりの驚きに、何をどう答えていいのかわからなかったが、とにかく、「とぅ、やぇ」と繰り返した。「神よ、御名に御栄あれ、御栄あれ」という意味だった。
しばし沈黙があった。空が、ざわりとゆれた、川面に、神の青い影が映っていた。上部人はただひれ伏し、息をひそめてその影を見つめていた。そのうちに、全身に満ちる熱いものを感じ始めた。魂の奥から、泉のように、歓喜があふれ出た。幸福が、鈴の割れるように、内部で叫んでいた。
神よ、神よ、神よ。なんということか。なぜいらしてくださったのか。わたしのためか。それとも、これから、わたしの、やらねばならぬことのためか。それほど、あなたは、人類を、愛していらっしゃるのか!
彼はひれ伏したまま目を閉じ、神に感謝と幸福の祈りをささげた。「ねに、に、あい、ふや」…何もない。わたしには、わたし以外の何もない。けれども、わたしは、わたしを、あなたにささげます。神よ。どのように苦しいことでも、やっていきます。神よ、わたしは、やります。道は、苦しい、そして長い。けれども、わたしは、わたしには、できます…、できますとも!
そうして、彼が、再び顔をあげたとき、彼は、一番最初にもたれかかった森の隅の胡桃の木に、まだ、もたれていた。ほぅ?彼は目を見開いて周りを見回した。夢を見たのか?しかし、胡桃の森に、かすかに青く清浄な神の香りの名残があった。天を見上げると、あの気高くも清らかに白かった巨大な枝角の気配が、月光をかすかに跳ね返して、透明な白い光の大樹の幻影を、空に描いていた。
神は、いらっしゃったのだ。確かに、いらっしゃったのだ。彼は、思った。胸が、愛に満ちていた。彼は震えながら、手に小杖を出し、それを笛に変えて、吹いた。清らかな音律が高く空に響いた。それに合わせるように、胡桃が金の鈴を鳴らした。胸の奥から次々と湧き出でてくる愛が、まだ冷たく残る悲哀を包み込んだ。彼は悲哀と喜びを同時にかみしめ、再び涙した。
風がふと、森の奥でさわりとささやいた。上部人は目を開け、笛から口を離した。「きの」…ああ、そろそろもう、地球に向かわねばならない。彼は言った。あの百合の紋章を、補修しなければならないからだ。彼は、その仕事を、これから、何百年かの間、やっていかなければならなかった。ほとんど毎日のように、紋章を補修していかねばならなかった。人間は誰も知らぬ、秘密の浄化を、ひっそりと、長い間、やっていかなければならなかった。人類が、戦争によって自ら作った暗闇の苦悩に、これ以上、落ちてゆかぬために。
上部人は立ち上がった。そして、神と胡桃の森に、深い感謝の意をささげると、呪文を唱え、すぐにそこから姿を消し、首府に向かった。悲哀は残っていた。だが、やらねばならないことは、やれる。きっとこの悲哀は、消えることはない。だが、愛は、やっていくだろう。わたしは、やっていくだろう。
「ひ」…人類よ。と、彼は言う。おまえたちのなしたことを、清めるために、どれだけの者が働いているかを、いつおまえたちが知るか、それはわたしの求めることではない。だが、わたしはやろう。神も、そしてわたしも、おまえたちを、愛しているのだから。
若い上部人は、準聖者の姿をとり、上部から月の世に降りて行った。そしてまた、地球に向かった。彼は知らなかった。胡桃の木が、彼の胸の中に、ひそやかに、自らの金の鈴を一つ、埋めてくれたことを。その鈴は、聞こえぬ金の音で常に彼の胸を清め、彼がこれから味わうであろう多々の苦悩と悲哀を軽くし、少しでも彼の魂の傷を癒そうと、長い時を、かすかにも確かに鳴り続けていくであろうことを。
愛はいつも、そうやって、ひそやかに、行なっているのだ。すべてのことを。