ある休日のことだった。食後のお茶を飲んでいたある詩人が、突然、持っていた新聞をがさりと揺らした。
「ジュディス・エリル…、死んだのか」詩人はひとりごとのように言った。その視線の先には、一枚のモノクロの女性の写真とともに、小さな記事が書かれてあった。
「ジュディス・エリル、本名ジュディス・ピーターソン。狂乱の詩人とも呼ばれ、その女優並みの美貌と、激しく現実世界を批判する率直で魅惑的な詩の言葉は、多くの熱狂的な支持者を得たが、それと同時に巧妙陰湿なストーカーをも得た。彼女の人生は波乱の連続だった。…犯人はすぐに警察により捕まえられたが、黙秘を続けているという。夫クリストファー・ピーターソン氏は遺体にすがりつき、泣き叫んでいた。『これは嘘だ。現実なんかじゃない。こんなことがあってたまるものか。彼女が一体何をしたんだ!』…嵐のような人生を送ったひとりの詩人は、嫉妬に狂った男の、一発の銃弾によって路上に倒れた。享年…」
詩人は、深いため息とともに、言った。「四十八歳か…、まだ若すぎるじゃないか」
詩人は新聞をテーブルの上に置くと、自分の書斎にしている小さな部屋に向かい、乱雑な書棚の奥から、一冊の詩集を取り出した。「ミネルヴァの嘲笑」と題されたその詩集は、エリルの代表作であり、その詩人の生まれた国の言葉に翻訳された、ただ一冊の彼女の詩集だった。詩人はしばし、詩集をぱらぱらとめくりながら、エリルがこの世に残した詩の言葉の世界に酔った。
「…まさに、真実だ。エリル、君は本当のことを言い過ぎた。でも君のしたことは、まちがってはいない。君のような人が、必要なんだ、人間には。君となら、話があうと思っていた。本当に、生きているうちに、一度でいいから、君と話がしたかった。どんなにか、君にとって、生きることはつらいだろうと、思っていた。君みたいな人がこの世にいるんだってことが、わたしには、どんなに、嬉しかったか…」詩人は、詩集に向かって語りかけた。そしてぱたりと詩集を閉じると、顔をあげ、天に向かって祈りながら、一筋の涙を頬に流した。
部屋の片隅の、小さな机の上には、その詩人が書き散らした詩が、紙の山になって積っていた。その詩人は、エリルのように脚光を浴びてはいなかったが、何冊かの詩集を発表しており、静かな影響を一部の人々に与えてはいた。詩人はどの団体にも属せず、ひとりで活動していた。詩人は、陽だまりにいるときに感じる、金の湯を総身に浴びるような神より来る魂の歓喜を、色とりどりの珠玉のような言葉で語るのが好きだった。一部の批評家は、その詩人の詩に、あまりに素直すぎる、ここまで純粋に言葉を使うと、却って偽善に聞こえる、と批判した。詩人は、そんな一人の批評家のほんの小さな言葉にさえ、胸深く傷つき、しばし自分の詩を書けなくなったほどだった。詩人の詩の心を理解してくれる人は、本当に少なかった。たまに好意的に理解を示してくれる人も、微妙な言葉の彩の裏に、痛い毒のような嘘が隠れていた。詩人はその、むき出しの心臓のような痛い感性で、人々の嘘に敏感に気付き、それにさいなまれ、魂をいためつけられ続けた。詩人が、心より人に愛を示しても、人は決してそれを本当だとは受け取らなかった。人々は、ほとんど、愛を信じていなかった。多くの人は、表面上はいかにも美しく愛で飾りながら、本当の本当の愛は、決して信じてはいなかった。真実の愛を本当に信じていた詩人は、心を病み、病院に通い、医師に処方された薬を、毎日飲んだ。しかしその薬は、何の役にも立たなかった。この世界には、一筋の希望もないのかとさえ、思われた。孤独だった。暗闇の地上に、無理やり沈められた小さな星のように、詩人の魂はいつも、じくじくと痛み、嘘の刺に痛めつけらた傷から流れ出る血が、その胸から止まることはなかった。
その詩人にとって、ジュディス・エリルの名は、数少ない希望の一つであったのだ。遠い異国の人ではあったが、話をすれば、きっと心が通うと感じていた。同じ種族の匂いを、感じていた。本当のことしか言えぬ、あまりにも純粋な魂の持主であり、それゆえにあらゆる苦しみを浴びねばならぬ種族。そのエリルが、路上の銃殺死体となって、死んだ。なんという世界なのか、ここは。真実を語ろうとすれば、ここでは、あまりにも惨い目に会うのだ。だから、誰もが、嘘をつく。自分にも、世間にも、神にさえも、嘘をつく。それが、この世界なのだ。
詩人は、詩集を書棚に戻し、乱雑な書棚を少し整えると、ふと手を止めて、背を丸めて目を閉じ、再び、深いため息を、床の上に落とした。涙がにじむのを止めようとしたが、できなかった。半身をもがれてしまったような、冷たい喪失感が詩人を襲った。また薬を飲むか、と考えたが、そんなことをしても何にもならないと思いなおした。エリルのために、追悼の詩を書こうかとも思ったが、詩人の情感は鉛に抑えつけられているかのように動こうとせず、机に向かう気すら起らなかった。
詩人は目をあげ、窓の外を見た。庭に植えた小さな緑の木の葉が、午前中の若い日の光を浴びて風に揺れていた。詩人は、ふと、数少ない友人のひとりのことを思い出し、彼女の元を訪ねるために、外に出ようと思った。詩人は上着をとって、裏口から外に出た。
すると、不意に、その裏口の白い扉に、二つの青い瞳が、開いた。その瞳は、一、二度、小さくまばたきをしたかと思うと、するりと白い扉から抜け出し、詩人の後を風のように追い始めた。それは、金の髪の若者の姿をした、ひとりの聖者だった。聖者は杖からかすかな鈴のような清めの音を鳴らしながら、詩人の後を追った。
古い家並みの並ぶ古い町の、くねり曲がった細い道を、詩人は歩いていった。時々、町に住む近所の人とすれ違ったが、その人たちは、詩人を見ると、さっと顔の色を変えて詩人から目をそらし、あわてて通り過ぎた。詩人の胸に悲哀が流れた。詩人は、若いときから、なんとなく、気付いていた。なぜか、自分が、他人の心に触れると、その人の心が、まるで花の枯れていくように萎えていくことを。そしてそれから、その人の人生が、微妙に狂っていくことを。詩人は、まるで幻想のような思いを抱くことがあった。自分は、何かの鍵ではないのか。何か、人の魂の中に秘められた、秘密の部屋を開く、鍵のようなものではないのか。自分は、人々にとって、触れてはならない傷のようなものではないのか。忘れ去りたい思い出の影のようなものではないか。だから、自分は、人に嫌われ、顔を背けられ、さまざまな人から、批判を浴びるのではないか…。
詩人は、二十分ほど、町の中を歩き、やがて、人一人がやっと通れるほどの細い道に入っていった。その道の横には、古い時代からある、酒樽を作る小さな工場があり、その裏手の狭い空き地に、一本の細く小さな林檎の木が立っていた。なんでこんなところに、林檎の木があるのか。たぶん、誰かが、食べた林檎の芯を、ここに捨てて行ったのだろう。林檎の芯に潜んでいた、ある種が、何を思ったのか、芽生え始め、根を下ろし、この世に生れてきたのだ。何を好んで、こんな日も当たらぬところに生きることを選んだのか、それは詩人にもわからなかった。林檎が生きて行くには、その場所はあまりにも、さびしく、苦しかった。種のまま、ひとつのゴミとして土の中に死んでいった方が、幸せであったろうに。でも、彼女は、この世に生まれ、生きてゆくことを選んだのだ。
詩人は、林檎の木の前に立つと、彼女に心の中で離しかけた。
(友人をひとり、失ってしまったよ…。また、希望が一つ消えた。でも、彼女は勇気をこの世に残して行ってくれた。わたしは、まだ生きていけるようだ)
すると林檎は、かすかに枝を揺らした。林檎は、小さな花をつけていたが、滅多に実をつけることはなかった。生きることが、苦しすぎたからだった。実をつけられるほどの、光も、力も、その場所は与えてはくれなかった。それでも、時にかろうじて枝に灯る小さな実は、確かに赤く、林檎の誇りがかすかに光っていた。あまりにも小さな希望だった。ほんの小さな、自分の、証しだった。林檎よ、なぜ、ここに生きることを選んだか。それは彼女にもわからなかった。だが、ここで生きることは、確かに彼女に何かを与えていた。耐えることは苦しかったが、どんな苦労をしても、花を咲かせることは、嬉しかった。小さな自分の灯を見に、こうしてひとりの友人が時々訪ねてくれるささやかな幸せが、どんなにか自分を明るく照らしてくれるかに、彼女の魂は深く揺さぶられ、神への感謝に涙せざるを得なかった。
(ともだちはいますわ、ここにも。ほんとうに、生きるのは、苦労ですわね。でも、幸せもありますわ。あなたがいて、わたしがいて、やわらかに風が吹いて、時々、光が、ひととき、温めてくれますの。悪いことばかりではありませんのよ…)
林檎は答えたが、それは詩人の耳には、ただかすかな空気の揺らぎとしか聞こえなかった。しかし、詩人の胸に、確かに温かな光は映り込んだ。
詩人は、日陰にひっそりと咲く、小さな林檎の木に、自分の身を重ねてもいたのだろう。自分の本当の故郷は、本当はずっと遠い、はるかなところにある。詩人はいつもそう感じていた。そしてこの林檎の木の、本当の故郷も、遠いはるかなところなのだ。君も、わたしも、故郷を離れて、ひっそりと、世界の片隅で、孤独をなめて生きている。なんと、苦しいのか。でも、生きている。いや、生きて行こう。何かを、しなければならない。自分は、ここで何かをしなければならないのだ。それが何なのか、今はまだわからないのだが。
詩人は、何か辛いことや悲しいことがあると、いつもこの林檎の木のことを思い出し、ここを訪れては、林檎を相手に、沈黙の会話を交わした。決して言葉にはならないが、かすかな情感が、互いの間に流れていることを、感じていた。時には、特に用もないのに、風に吸い込まれるように、詩人が彼女の元を訪れることもあった。そんなときは、必ず、林檎が何かを詩人に与えてくれた。それははっきりと形に見えるものではなかったが、詩人の中にかすかに清らかな香りが忍びこみ、自分でさえ気づかなかった、深く、膿みかけた心の傷に、痛い薬を塗ってくれるのだ。そうして初めて、詩人は、自分の心が死にかけていたことに気づくということが、しばしばあった。
詩人は、手を伸ばし、その小さな林檎の木の、もう血の通わなくなった細い枯れ枝に触れた。この木も、多分、そう長くは生きられないことだろう。ほんのひととき、地上に灯る、命だろう。自分と、木の、どちらが先に行ってしまうかは、わからない。でもこうして、ふたりで語り合えている間は、神が与えてくれたその幸福を味わおう。この世界に、密やかにも流れている、神の愛の音楽に、二人で聞き浸ろう。詩人は林檎の木に語った。
オデュッセウス
タナトスの針の雨の降る
茨と石の荒野を 進むのよ
詩人は、エリルの詩の一節を思い出した。まさに、そのとおりだ、と詩人は心の中で言った。タナトスの雨が降っている。今も、この身に。
その詩人の様子を、金髪青眼の聖者は、ただ静かに見守っていた。悲哀を、ともに感じていた。聖者は、目を閉じ、なんということだ、とささやきながら、かすかに、苦い笑いに口を歪めた。この方は、何も知らない。この世に、自分が、どんな嵐を、起こしているのか。それが、どんなことになっているのか。人類が、あなたゆえに、どのような地獄を、これから味わわねばならないか。
聖者は、ふと、目を道の片隅にやり、そこに描いてある銀の紋章を見た。そしてそれが、怪によって少しむしばまれているのに気付いて、杖を揺らし、紋章を新しく書き直した。聖者はそうやって、詩人の周りに、ある種の特殊な結界を張っていた。詩人は、何も知らなかった。この詩人は、ある古い町の片隅に、ひっそりと住んでいるのだが、そこは本当は、全く別の世界であり、まるで地球世界とは別のところであるのだということを。この詩人だけが、地球上で、地球とは全く違う世界に住んでいながら、同時に地球上に存在しているのだということを。その違う世界からの秘密が、決して外に漏れ出さないように、結界は常に、詩人を見えない熊のように追いかけては、やわらかく包みこみ、その心臓が、地球上の凄惨な虚偽の毒薬に触れて死んでいくことから、かろうじて助けていた。
聖者は呪文をつぶやき、言語を切り替えると、ほろぉ、と上部の言葉で、ささやいた。すると、詩人も何かに感応して、ほぅ、ふっ、と言った。詩人はそれを、自分のため息だと思っていたが、実はそれは、こういう言葉であった。
「あなたは、彼方よりいらっしゃった」
「ああ、そうとも、わたしは、彼方より来た」
詩人は、林檎の前にしばし立ちつくし、沈黙の中で、愛のことばを交わしたあと、小さく林檎に頭を下げてから、その前から去って行った。林檎は、遠のいていく詩人の姿を目で追い、その背中に、透き通った光の、清らかな薄紅の翼があるのを、見た。
誰も知りはしない。きっとあの詩人でさえすらも。今は。
ここで、やらねばならぬことがある。詩人は歩きながら、心の中で、傷のように痛む常の思いを、また繰り返した。聖者がその後を、また密かに追った。
その頃、月の世の一隅の、ある小さな滝壺のほとりでは、一匹の鱒が、ついぞ泣いたこともないような女の涙を、しきりになぐさめていたという。
(完)