「こちらですよ」と、青年は、後ろからついてくる白い服の男を、森の奥に案内しました。白い服の男は、半月島に住む研究者で、長い間、怪についての研究をしていました。彼は噂で、ある珍しい怪がこの森の奥にいるという情報を得、それを見るために、やってきたのでした。
突然目の前が広がり、小さな湖のほとりに出ました。二人が森を出ると、月がふと陰り、空気に腐った糞尿のような匂いが混じりました。研究者は少々嫌な予感がしました。青年は、月珠の光を灯し、「この水に入っていくんですけど、大丈夫ですか?」と言いました。見ると湖水は、どす黒くにごり、ひどい悪臭は、彼の鼻と目を痛く刺しました。研究者は少し気おくれしましたが、いけます、と言いました。青年は、慣れた様子で湖水の中にすっと入っていきました。研究者はあわてて後に続き、青年の後を懸命に追いかけました。
湖水は、底に近づくほど清くなり、やがて水底に小さな光が見えました。近付いてみると、それは巻貝のような形をした小さな家で、窓が二つと入り口のドアが一つあり、それぞれが金色に光っていました。
青年が家のドアをたたくと、「ようこそいらっしゃい」との声と一緒にドアが開きました。中から月の役人が一人出てきて、快く迎え入れくれました。「例の蜘蛛を見たいというのはあなたですか」役人は言いながら、研究者に問いかけました。研究者は役人に名と身分を名乗って、このたびの礼を言い、握手を交わしました。二人はしばし会話を交わし、早速例の怪を見せてもらえることになりました。
それはその家の地下室にありました。階段を降りていくと、大きな魔法のしるしが彫りこまれた重厚な木の扉があり、役人はその前で何かをつぶやきながら、ドアを開けました。最初、まぶしい光が彼らを迎えました。そこは、月光が壁と天井に何重にも塗り重ねてあり、昼の光ではないかと思うほど、強い月光に満ちていました。そして部屋の真ん中にある机の上には、一つの大きな水晶玉が鉄製の台の上に固定されており、その水晶玉の中には、見たこともないような大きな蜘蛛が、封じ込められていました。
「これは、女性じゃありませんね!」研究者は水晶の中の蜘蛛を一目見て、言いました。すると役人も感心しながら言いました。「さすがに専門家ですね。そのとおりです。」
「女性にしては大きすぎるし、女性の怪特有の悲哀がない。男は普通ムカデやネズミに落ちるものですが…、それにこの蜘蛛、もしかしたら死んでるんじゃないですか?」
「ええ、そのとおりです」役人は少しきつい目をして、言いました。研究者は尋ねました。「いったい何の罪でこうなったんです?」
すると役人は、語り始めました。
「その昔、地上世界で、多くの人間が神を侮辱し、何もかもを勝手にやりだした頃、彼は自らを神と称し、たくさんの人間をだまして自分の好き放題にやり、地上世界に恐ろしい悪と混沌の恐怖をもたらしたのです。そのおかげで、人間が地上で生きることが、とても苦しくなり、今でもそれが続いています。その罪で、彼は死後すぐに蜘蛛に落ち、それでもなお神に挑戦しようとしたため、ある聖者によって殺されてしまったそうです」そこまで言うと、役人は重い息をつきました。
「死んではいますが、存在は消えることはありませんから、死者の死者もものは考えています。お聞きになりますか?」役人が問うと、研究者は黙ってうなずきました。すると役人は、鉄の台にある小さなスイッチを押しました。すると、蜘蛛の思考が、音声に変換されて、聞こえてきました。
『つらい、つらい、なんでおれは、なんでおれは、馬鹿なんだ。いやだ。いやだ、いやだ。馬鹿がいやだ。みんな馬鹿になればいい、すべて馬鹿になればいい…』役人はすぐにスイッチを切りました。青年と研究者が、その言葉の毒気にあてられたように青い顔をしていました。役人は急いで二人の額に光の文字を描き、それで彼らを清めながら、言いました。
「このように、もう何万年も、この男は、すべてを呪い続けているのです」
研究者は清めを受けて一息つくと、役人に言いました。「彼はすさまじい存在痛に苦しんでいます。自分が存在すること自体が苦しいという存在痛は、人に冷酷な自己崩壊感の幻を見せ、その恐ろしさのあまり、自分以外のものを、自分ではないというだけで激しく妬み、それは世界に恐ろしい破壊をももたらします…」
「もちろん、知っています」役人は答えました。「この蜘蛛は、それを実際に地上で、すべてやったのです」役人は水晶玉に手をやりながら、役人の形式的な声で言いました。
しかし研究者は、蜘蛛を見て、どうしても胸につまるものを感じ得ず、言いました。
「神は、彼をお見捨てになったのですか?」
すると役人は首を振り、「全ては神の御心です。わたしにはわかりません。」と言いました。
「…永遠、なのですか?」と、また研究者が問いました。役人はただ「永遠です」と答えました。それは、この蜘蛛がこうして、水晶の中で、永遠に存在痛に苦しみ続けねばならないという意味でした。
研究者は重い石を飲んだかのように黙りこみ、水晶玉の中の蜘蛛を茫然と見つめました。役人はそんな彼の心をみすかしたように、一言、言いました。
「神を、甘くみてはいけません」。