「そうか」と、博士は小さな声で言いました。彼は研究室の窓辺で、一匹の蜘蛛の怪と、話をしていました。その蜘蛛の話を聞いて、博士は衝撃を受け、何を言っていいかわからず、眼鏡をはずして目を覆い、しばしうつむいていました。そして途切れた会話が、そのまま消え入りそうになる直前、博士は顔をあげ、言いました。
「よく話してくれたね、カメリア。つらかったろう」
カメリアというのは、その蜘蛛の名でした。言葉を話す怪は珍しくはありませんが、彼女のように流暢にしゃべる蜘蛛を、博士はほかに知りませんでした。この窓の隙間から、彼女が研究所に入ってきてからというもの、博士はその蜘蛛と会話することが多くなり、名前が必要だと考えた博士は、彼女が好きだという花の名前を、彼女の名にしたのでした。
カメリアはその名前を、少し恥じらいながら悦びました。自分はそんなにきれいなものじゃないのに、とこそりと言いましたが、博士は聞こえないふりをして、その日から彼女をカメリアと呼ぶことにしたのです。
カメリアは、研究所で博士や少年と暮らしているうちに、だんだんと心を開くようになり、自分からいろいろなことをしゃべるようになりました。彼女から得る情報は、博士の研究の大きな助けとなりました。そしてある日、とうとう彼女は、自分が怪となった元々の出来事を、博士に話したのです。
それは遠い昔のことでした。彼女はある男と恋に落ち、彼を深く愛しました。しかし男はある日、彼女の目の前で「こいつは俺の女だから好きにしていい」とその仲間の男たちに言い、彼女は数人の男たちに輪姦されたあげく、首を絞めて無残に殺され、捨てられたのでした。
その日から彼女は、男を激しく憎み、幸福に結ばれた男女を妬み、多くの人を殺し、あるいは不幸のどん底に落とし、とうとう怪に落ち、神さえも憎む毒を吐くようになったのでした。
つう、とカメリアは鳴きました。博士はふと目を光らせ、カメリアに、「それは、つらいっていう意味だね」と言いました。カメリアは少々あわてて、なんでわかるの?と博士に聞きました。博士は笑顔を見せ、「なんとなくさ。怪はよくつらいつらいと泣くけど、君はなんだか、その言葉が苦手なんじゃないのかい?」するとカメリアは、何だか、自分の胸が広くなったように感じました。実に、そのとおりだったからです。
「先生はすごいのね、なんでもわかるみたい」カメリアは言いながら、博士のほほ笑む顔をしばし見つめました。博士は、まだいろいろと彼女に質問したいことがありましたが、今の彼女の気持ちを思い、ほかの話をすることにしました。彼は窓の外を見上げ、半分に欠けた月を指さし、「どうして、この島から見える月が、半分しかないか知ってるかい?」と問いました。カメリアは、いいえ、と言いました。
「あれはね、科学的な視点からでは、世界の半分しか見ることができないっていう、神さまの僕たちへの教えなんだよ。でも僕はあえて科学にこだわって、こうして科学的な方法で、どうにかして怪を救えないかと考えている。でもなんだか、今は少し、魔法を使ってみたい気分だ。使えるものならね」
博士は月を見上げながら、静かに言いました。カメリアはその横顔を見て、自分の中で、何かきりりと痛むものを感じました。
カメリアは、自分が不幸に陥れた、ある夫婦のことを思い出しました。仲睦まじく愛し合っている彼らを妬んだ彼女は、その幸せを無残な形で破壊しました。
普段の彼女なら、彼らの不幸を見て、「馬鹿な人たち」と言って大笑いするはずでした。だのになぜかそのとき、彼女は笑えませんでした。冷たい悲哀が胸をつかみ、彼女の足は震え、不意に、恐ろしいことをしてしまった、と思いました。
彼女がこの研究所を訪れたのは、それから何年か経ってからでした。半月島の研究者の噂を蜘蛛仲間から聞き、彼女は何かに導かれるように、風に乗って島にやってきました。そして博士と少年に出会い、カメリアと呼ばれ、こうして過す日々に、幸福さえ感じるようになりました。
カメリアは黙ったまま月を見上げている博士の横顔を、じっと見つめていました。彼を照らす月の光が、ふと強く輝いたような気がしました。カメリアは震えました。そして自分に、(だめよ、わたしは毛むくじゃらのおばけなんだもの)と言い聞かせました。
魔法は、もう起こりはじめているのかもしれませんでした。