そこは小さな白い部屋の中でした。部屋に電灯はなく、代わりに白い壁や天井がやわらかな光を放っていました。鍵のかかったドアには鉄格子の入った窓があり、その窓の向こうに、廊下の向こう側の黒い窓を横切る、金の月光の筋が見えました。
男が一人、部屋の隅に座って壁にもたれていました。彼はここに来てからというもの、自分以外の人間を見たことがありませんでした。ただ、鉄格子の向こうに、ときどき人の足音がぱたぱたと聞こえたり、歩きながら話す人間の声と足音が、前を通り過ぎていくことがありました。
また時に、ドアが開き、検査だという声がして、見えない人間に、光る粉を飲まされたり、薬のしみこんだ紙を体にはられたりすることがありました。ここは病院だろうか? なんでみんな透明人間なんだろう、と男は考えました。
ある日、ばたばたという大勢の足音と声の一群がやってきて、男の部屋の前で止まりました。そして胸に響くバリトンの声が言いました。
「この人だね。例の罪びとは」すると、若い女の声が答えました。「ええ、そうです。生前、彼は幼女三人を、悪戯目的で誘拐して殺しています」だれかがため息をつきました。「むごいね」「ここに落ちてくる罪びとはみなこんなものですよ」「こっちの検査結果によると、十七番目の霊骨が……」
声の一群は彼の部屋の前でしばしがやがやと騒ぎ、また去っていきました。男は部屋の隅で、もたれた壁からずりおち、床に倒れました。彼は、体を抱えて、ふっふっと笑い、まるで氷の中にいるように体を縮めました。つらい、つらい、つらい、つらい、と自分の中で誰かの声がしました。
男はいつしか眠りにつきました。夢の中で彼はきれいな薄紅の花が咲き乱れる野にいました。彼は笑って、苦しいことなど何もなかったように青い空や雲の流れを見あげました。心地よい風が彼の胸を涼しく通り、それは彼の傷んでいる骨や血を健やかに清めてくれるようでした。
と、突然黒いものが遠くの空に現れ、風景に黒い染みがだんだんと広がってくるように、彼に近づいてきました。男は逃げだそうとしましたが、そこから動くことができませんでした。近付いてきたのは、一頭の、大きな鯨でした。鯨は小さな目で彼を見ると、静かな声で言いました。
「もうすぐ彼が来る」
男は、え?と声をあげました。鯨はもう一度、「もうすぐ彼が来る」と言って、ゆっくりと方向を変え、再び空の向こうに飛んでゆきました。
「もうすぐ彼が来る」と彼はつぶやいて、はっと目を覚ましました。気がつくと彼は、手術室のようなところにいて、ベッドに寝かされていました。姿の見えない女の声が、彼に言いました。「目を覚ましたのね。心配しないで、何も怖くはないわ」彼はものをいうことも、動くこともできませんでした。みると手術室の天井には、電灯ではなく、奇妙な青い炎が、天井に固定された水晶玉の中で燃えており、それはなにものをも焦がすことなく輝いて、部屋を青く照らしていました。
別の女の声が彼に言いました。「あなたは、今回の罪で、霊骨が一つ砕けてしまったの。人が大きな罪を犯すとね、魂の中の骨がだんだんと傷んでくるのよ。それでこれから、その砕けた骨の代わりに月長石の骨を魂に埋めるの。ちゃんと根付くといいんだけど」女の言葉にかぶさるように、バリトンの男が言いました。「根付くさ。過去に失敗例はない」「確かに、失敗例はありませんわ」「心配は禁物だ。主たる愛がある限りは、全てはよい方向に進んでゆく。われわれも、そしてこの罪びともまた、愛の一部なのだから」
男は目を閉じました。ベッドの周りを何人かの男女がせわしく動く気配がし、誰かが自分の体の中でしきりに何かをいじっているのがわかりました。しばらくしてバリトンの男の声が響きました。
「よし、だいじょうぶだ」
その声に、彼がふと目を開けると、そこには白い服をきた男女が六、七人立っていて、彼を一斉に見つめていました。
「浄化の風がくるまでには、骨はもう治っている。君の試練はそれからだ」バリトンの男は厳しい声で言いました。男は茫然として、周りを見回していました。