今年は万葉集によく出てくる大伴家持の生誕1300年だそうだ。家持(29歳)は
新進気鋭の青年貴族として越中の国に国主として奈良の都から赴任し、5年間を国府(
現在の富山県高岡市伏木周辺)に滞在して勤めを果たし、34歳にて都に復帰された。
現在の高岡市伏木には越中の国庁跡、国分寺跡、家持の住まい跡、などの史跡が残り、
不明確な部分の調査が進んでいる。
家持は5年の越中赴任の間に数多くの歌を詠み、各地の石碑に刻まれて残されている。
私は文学音痴ではあるが、伏木にある万葉歴史館にてガイドの講釈を聞き、紹介映画を
見せていただいて、随分と学習できた気がする。奈良時代の越中の国は現在の富山県と
能登半島を合わせたエリアで、加賀国は当時はなく、石川県は越前と越中に含まれていた
そうである。
今回は古代・越中の史跡を訪ね、歌詠み家持が歌を詠んだ現地に石碑を訪ねた。雨晴
(アマハラシ)海岸からは海越しに雄大な立山連峰を見渡せるはずであったが、上半分が
雲に隠れていたのは残念であった。一通りの散策の後、氷見に出かけ、番屋でグルメを
楽しみ土産を買い込んで帰宅の途についた。東海北陸道が貫通して、高速バスが名古屋~
高岡間を便利に繋いでくれ、3、4時間で快適に直行できるようになってうれしい限りだ。
大伴家持(おおとものやかもち)略歴
養老2年(718)に生まれた、奈良時代の貴族で歌人である。大伴氏は
大和朝廷以来の武門の家柄で祖父安麻呂、父旅人とともに律令制度下の高級官吏
として活躍した。天平18年(746)に越中の守となった家持は越中の自然と
風土の素晴らしさを223首の歌に残した。朝廷では越中復帰後、兵部小輔、
因幡の守、薩摩の守、参議、陸奥鎮守将軍などを歴任した。また、万葉集編纂の
中心的な役割を果たし、延暦年間(783)には従三位中納言にまで昇進した。
785年暗殺事件に巻込まれ、罪を被る中、没する。806年罪を解かれ復位。
万葉集(全20巻:4500余首) 大伴家持:473首(越中にて223首を詠む)
大伴家持の歌(目についたもの7首)
もののふの 八十をとめらが 汲み乱ふ(くみまがう)
寺井の上の 堅香子の花(かたかごのはな) 堅香子:カタクリ
立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし
磯の上の 都萬麻(つまま)を見れば 根を廷(は)えて
年深からし 神さびにけり
妹に逢はず 久しくなりぬ 𩜙石川(にぎしがは)
清き瀬ごとに 水占廷へてな(みなうらはへてな)
春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(をとめ)
馬並めて いざうち行かな 渋谿(しぶたに)の
清き磯廻(いそま)に 寄する波見に
朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 歌う船人
以上
以下、個別の写真を掲載します。
個別写真、終わり。