「ストレスで口が開かなくなっていた僕が、たまたま入ったリラクゼーションのお店に、そのひとはいた。
お店と言っても、山深い日帰り温泉の休憩室の一角に、古びたついたてを二重にしてこしらえた怪しげな外観だったが、そんなものに頼る気になったほど、症状は悪かった。
入ってみると、意外にも施術者は若い女性だった。
施術台の簡易ベッドが二つ、くっつきそうにして並んでいる。
土日の人出がある時は二人で出勤しているが、今日はたまたま一人だと言う。
体を揉みほぐしたあとに顔をマッサージしてもらえないか、と思い切って尋ねると、お金をいただいて施術したことはないけれど、大丈夫です、できます、との答えが返って来た。
耳の脇の、あごの筋肉を円を描くようにマッサージしてもらうと、その日は格段に症状が改善された。
帰りは運転しながら久しぶりにコッペパンをほおばった。
それからというもの、仕事の合間を縫って二週間に一度、予約の電話を入れた。
うつぶせで着衣のままだったが、彼女の施術を受けると、なんだか自分の骨格や内臓の位置が頭に浮かぶような気がした。
そう話すと、彼女はお褒めに預かり光栄です、と笑った。
私なりに、良くなれ良くなれ、と念じながら揉みほぐしているので。
しばらくすると、売り上げの減少からベッドが一つになり、もともと狭かったスペースはさらに縮小された。
こんなところでも、床面積で家賃が決まっているのだそうだ。
ここがなくなると困るなあ。
僕が本音を漏らすと、私はこの仕事が好きなので、どこかで必ず施術していますから、と真顔で答えた。
そうこうしているうちに彼女は結婚、妊娠・出産のため産休に入った。
その間、店は同じ仕事をしていた彼女の従妹が守った。
それからも僕は店に通い続けたのだが、やがて彼女は第二子を授かり、それを機に店を畳むことになった。
最初の施術から12年が過ぎていた。
井浦さんは本当にいいお客様でした、私がここまで続けられたのは、あなたのおかげです。
僕のこめかみを揉みながら、そう言って彼女は大粒の涙をタオルの上に落とした。」