高校生だった1978年6月、宮城県沖地震が起こった。
平日の放課後で、田舎町に一軒しかない若者向けの洋服店で僕は夏物のコットンパンツを選んでいた。
前触れもなく激しい横揺れが来て、狭い店内に天井までびっしりとディスプレイされていた服やポスターのパネルなどがどんどん頭の上に降ってきた。
横滑りした大型のガラスのショーケースが壁にぶつかり大きな音を立ててこなごなに割れた。
ショーケースがなくなっていやに開けた視界の向こう側に、思いがけず知った顔があった。
小中と同級だった女の子が女子高の制服のまま恐怖の表情を浮かべて立ち尽くしていた。
ヤエちゃん、こっちだ!
僕は入り口ドアの方を指し示し、手招いた。
古い建物が傾いて開かなくなった木製ドアを蹴破って、僕ら二人は外に出た。
あとで弁償させられるかもしれないな。そんなことを、その時は考えていた。
僕らは小走りで商店街を通り抜けた。
陶器店の表に展示してあった大きな壺はすべて割れて歩道の上に無残に転がっていた。酒屋では酒瓶がショーウインドウを突き破っていた。
停電で信号が消え、車はそろそろと動いている。
不安げな顔で住民がそれぞれの家の前に出ていた。
ヤエちゃん、あの交差点までチリ地震(1960年)の津波が来たそうだから、あそこを越えれば安心だ。僕の家もすぐだから。
母も手に小型ラジオを持って家の前に出ていた。
あら、ヤエちゃんだね、こんにちは。
息子より先に声を掛けるか。
停電で電話も当然不通になっていた。
彼女の家は我が家のもっと先だったが、両親ともに海岸近くの会社に勤務しており、不安に震えながら涙を浮かべていた。
きっと高台の小学校へ避難してるから心配ないよ、と励ましながら、待つこと二時間、到達した津波が30センチほどだったとラジオで聞き、僕は彼女を家まで送って行った。
別れ際に母が言った。
アンタたちはこういう大災害でも無事だったのだから、これから先も大丈夫。私は仙台空襲に遭ったけど逃げ延びた。だからね、あの時のことを思えばどんなことだってできるし、絶対死なないと思っているの。
彼女の家はまだ無人だったが、懐中電灯を手渡して、僕は帰路についた。
制服姿の女子高生と並んで歩くのが、途中からひどく恥ずかしくなっていたのだ。
*
台風が去り、雨風ともに止んだ翌日の昼、デイサービスのホールに一晩避難していたグループホームの利用者様を送り出した僕は、今回もなにごともなかったことに胸をなでおろしていた。
ニュースを観ようとテレビを点けると、ヘリコプターからの土砂崩れ現場の映像が映し出された。
役所らしき大きな建物が土砂に埋まっている。
町中がこのような状況です、とリポーターはヘリの騒音に打ち消されまいと大声で言った。
大変なことになってるけど、一体どこだろう、と画面下のテロップに目を凝らした僕は、喉元までおかしなモノがせり上がってくるのと、強烈なめまいとを同時に感じた。
三年前に同級生が移住した町だった。
*
ヤエ、どうしてそんなところへ行くんだ。
廃業して荒れ果てた広い観光農園を無償で譲り受け、梨やイチゴを育ててジャム工房を作りたい、と彼女は言った。
ああ、それはいいね、と言いそうになったのを慌ててこらえた僕は、つとめて厳しい表情を作りながら、今度災害が起きた時、僕は近くにいないぜ、と言った。
そうね、でもアンタ家庭持ちじゃない。
それはそうだけどさ。
*
携帯へ二度掛けたがつながらなかった。
彼女のことだからきっと無事だ。でも、自分より他者のことを優先するからな。そんなときになにかあったら。
夕方、ショートメールが届いた。
「私は大丈夫だよ。おばさんにもよろしく伝えてね。」