このたびの東日本大震災で被災された多くの皆様へ、謹んでお見舞い申し上げます。
大震災直後から、たくさんの支援を全国から賜りましたこと、職員一同心より感謝申し上げます。
また、私たちと共にあって、懸命に復興に取り組んでいらっしゃる関係者の方々に対しても厚く感謝申し上げます。
私が父と一緒に撮った写真は3枚しかない。
そのうちの2枚は、父の会社の事業所の開所日に職員さんが撮ってくださったものだ。
もう1枚は小学校の運動会。
私は出し物のよさこいの法被を着て破顔一笑、隣にしゃがんだ父の肩へ親しげに手を置いている。
父はブレザーに革靴という、その場にまるで似つかわしくないいでたちで、おそらく仕事を抜け出して駆け付けたのだと思う。
それでも、昼休みにお弁当のいなりずしを一緒に食べた記憶がある。
3枚のうちで一番古いのは、私が6歳の時のものだ。
写真の中の私は父と一緒にワルツを踊っている。
ホームがやっと開所日を迎え、父はよほど嬉しかったのか、恥ずかしがる私の手を取って、職員さんたちが目を丸くしているのにも構わず、ホールの真ん中できれいにステップを踏んだ。やがて管理者さんたちが一人ずつ加わり、それはマイムマイムのような楽しい雰囲気に変わった。
ホームはこのあと2年3か月ほどで東日本大震災の大津波により流失、別の場所に再建されている。
建物の建築が不許可の地域となった跡地はそのまま打ち捨てられた。
先日、私は思い立って兄とそこへ行ってみた。
土台は朽ち果てずに残っていたが、長く伸びた雑草にほとんど覆われていた。
「枯草や 我が父親の 夢の跡」
写真の日に一緒だった兄が芭蕉をもじって下手な句を詠んだ。
たぶん、悪ふざけでもしなければ、やっていられない心境だったのだろう。
私は足元にあった小さな白いものを拾った。
瀬戸物のかけらだった。
父は自分の亡骸を他県の大学病院へ献体し、私たち家族は骨を拾うことができなかった。
私はその白いかけらが、父の骨のような気がしていた。